「審判の正義を自ら勝ち取る」という発想。

昨日の夜から今日の未明にかけて、フェンシングが熱かった。

特に、準決勝のドイツ戦での一進一退の攻防、そして残り10秒を切ってから、太田雄貴選手が怒涛の攻撃で2点差を一気に追いついたシーンは、今回の五輪で一、二を争う名場面になるだろう。

で、どんなに丁寧な解説を見てもなお疑問点が残る、というルールの分かりにくさと、どちらがポイントを取ったのか、肉眼では俄かに判別できない、というゲームとしての分かりにくさ、そして、日本人的美意識とは微妙に反するビジュアル*1ゆえに、2大会連続、しかも今度は団体での銀メダル、という実績をもってしても、太田雄貴選手が願うような「フェンシングがメジャーになる時代」はそうそう簡単には来ないだろう、と自分は思っている(失礼)のだが、競技としての枠を超えて、これいいな、と思ったのが、審判に対するアピールシステム。

自分も詳しく理解しているわけではないが、中継を見ている限りでは、ポイントの判定に疑義があった時に、選手が自ら審判にビデオ判定を申し出て、その場で確認。直ちに異議の採否を決定する、という単純明快なシステムであるように見えた*2

ドイツ戦でも、終盤の大詰めで両国の選手から積極的なアピールが見られたし、特に、サドンデスの延長戦に入ってからは、相手に入りかけたポイントを太田選手が度々のアピールで取り消したことが、最後の「1点」につながっている*3

柔道のような、裏側(審判と審判委員)のやり取りではなく、体操のような事後的な異議申し立てによるものでもなく、まさに戦いの流れの中で、選手自身がイニシアティブをとって判定を申し立て、その場で判断が下される、というのは、いかにも欧米流の発想だなぁ・・・と、個人的には思うところだが*4、このようなシステムゆえに、「誤審」を後々まで引きずることもなく、目の前の試合の行方に集中できるのだから、決して悪いことではないだろう。

日本発祥のスポーツに限らず、最初の「判定」を絶対的なものとすることによって、審判の権威を保っている競技は決して少なくないから(米国での野球にしても、欧州でのサッカーにしても・・・)、民族的、文化的な背景に安易に結びつけてはいけないのだろうが*5、フェンシングの判定をめぐる選手と審判のやり取りを見ていると、欧州市民社会の理想を体現するような、“自立した個人”とか、“権利の行使”といったフレーズが、妙にしっくりはまってしまう(笑)。

個人的には、「ビデオ判定」が必要なくらい判定が微妙になりうる競技(特に今回の五輪で判定問題で揺れた某競技)であれば、“疑惑の判定”にフラストレーションをためる前に、選手自身のイニシアティブで“正義”を勝ち取る途を設けても良いのではないか、と思うところだし、同じことを考えている人も決して少なくないだろうが、いかに国際化が進んだからといって、そこまで、ドラスティックな展開になるのかどうか。興味深く見守りたいところである。

*1:どうも、あの白づくめの衣装と怪しげなマスクに馴染めないのだよね・・・。

*2:公式なルールでどういう扱いになっているのかは分からないが、選手側からアピールすれば、とりあえず審判で確認する、という場面は頻繁に見られたように思う。

*3:もちろん、VTR等で繰り返し報じられたように、最後の1点も、“相討ち”ゆえの長いビデオ判定の末に得たポイントだった。

*4:似たようなシステムとしては、テニスやバドミントンのライン判定をめぐる“チャレンジ”システムもあるが、格闘技系で、このようなシステムを取る競技は珍しいように思う。

*5:むしろ、競技そのものの分かりにくさを自認しているがゆえの、競技団体の知恵、と理解する方が穏当だろう。

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