“眞紀子クライシス”を振り返る。

11月2日、田中眞紀子文科相の「認可しない」発言で、上へ下への大騒ぎとなっていた「3大学設置認可問題」は、結局、大学設置・学校法人審議会の答申通り3大学の設置を認可する、という形で決着を見ることになった。

大臣の発言が二転三転した末に、振り出しに戻る、というのは何とも人騒がせな話なわけで、この約1週間の間、“まな板の上の鯉”状態で眠れぬ日々を過ごしたであろう3大学の関係者には心から同情するし、晴れて入学したのちも、最初の一年くらいは、“ああ、あの・・・”と言われ続けるであろう未来の学生の方々も気の毒というほかない。

とはいえ、当初、田中文科相が劇薬を投じた時は、メディアの報道にも、(好意的とは言わないまでも)大臣の方針に一定の理解を示すような論調が見られたのも事実である。

例えば11月3日付の日経紙では、

「大学の質確保へ『劇薬』」

という見出しを付けて、1990年代の規制緩和(大学設置基準の見直し)から、「大学数の増加に伴い、ずさんな運営が目立ち始めた」現状までを解説し(当然ながら今年10月の「堀越学園」に対する解散命令についても触れている)、「産業界からも大学の乱立が学生の質低下を招いているとの批判が出ていた」というコメントまで付した上で、田中文科相の審議会主導の設置認可行政への批判を詳細に紹介している(このパートのラストは「大学が増える中、新設の要望にどう対処するかの明確な方針を打ち出せていない文科行政に対する問題提起でもある」と締めくくっている)*1

「大学の数が増えすぎている」、「大学教育の質が低下している」という話は、ここ数年、ずっと言われ続けていることで、大学行政については素人の自分たちから見ても、「何でこんな大学(学部)を認可したのだろう?」と思うような学校が増えてきていたのは間違いない。

法曹関係者の中には、2004年度に大量の法科大学院の開設が認められた、という“悪夢”*2が、未だに生々しい記憶として残っている方も多いだろう*3

日経紙の記事にも書かれているような、「設置基準の見直し」が過去にあって、一定の要件を満たした設置者に対し、認可を拒むのは難しい、という建前は分かるとしても、もう少し何とかならんのか・・・という思いが、世の中の一定層の間に蔓延していたことが、「手段への批判」と「大臣が下した結論への支持」をある程度両立させていた、というのが、先週末の状況だったといえる*4

ところが、週が変わり、“不利益処分”に晒された設置者側関係者の声が幅広く伝えられるようになり始めると、形勢がだいぶ変わってくる。

つい数日前は、「理解」を示していた日経紙も、11月6日付の社説で、

「道理なき大学開設不認可は直ちに撤回を」

という強いトーンの文科相批判を展開した上で*5

「このまま開学できなければ、大学には施設整備や教員採用などで損害が生じる。(略)今後は行政不服審査法に基づく不服申し立てや不認可撤回を求める行政訴訟、損害賠償請求などに発展する可能性がある。」(日本経済新聞2012年11月6日付朝刊・第3面)

と煽り*6、とどめを刺すように、

「審議会は大学設置基準に基づいて答申を出しており文科相が設置基準に従った答申に反した判断をするには合理的な理由が必要」
「大学数が多いというのは設置基準にはないので理由にならず裁量権の逸脱だ。訴訟になれば文科省が負けることは明白」(同上、強調筆者)

という専門家(阿部泰隆神戸大名誉教授・弁護士)のコメントを掲載するに至った*7

そして、遅まきながら“世論の逆風”を察知した文科相文科省サイドが、連日、「新基準による審査を・・・」等々の弁明を繰り返して世間の不信感を増幅させたことが致命傷となり*8、とうとう、「外堀埋まり『降伏』」*9と評されるような、にっちもさっちもいかない状態で、「認可」処分がなされることになったのである。

たら、れば、を超えたところにある“この先”の行方。

仮に、3大学に対する「不認可」処分が現実に確定していたら、おそらくいくつかの設置者は確実に取消訴訟ないし認可義務付け訴訟(?)を起こしただろうし、そうなれば、行政法学者はもちろん、様々な門外漢を巻き込んで、興味深い論争が引き起こされていたことだろう。

逆に言えば、結局何事もなかったわけだから、“大臣の一時の気の迷い”が裁量権の逸脱かどうか、という議論をすることにも、もはやあまり意味はないと言える。

もし、文科省サイドがあと数日粘って、3大学の設置計画を再度吟味し、「正式な不認可処分」を出す時点で、「大学設置基準のいずれかの条項への不適合」を不認可の理由として挙げることができていたら(「大学全体の数の多さ」以外の理由を挙げることができていたら)、と考えると、本件を“エキセントリックな大臣の無謀な暴走”と片づけるのは、いささか早計ではないかという気もするし*10、同様の判断が「審議会答申後の大臣の判断」ではなく、「(政治的影響を受けた)審議会の判断」として行われていたら(一見すると、設置基準を満たしているように見えても、何らかの理由を付けられて「不可」の判断を示されていたら)、設置者側がこんなに同情され、救済されることもなかっただろうから、9年前の一部法科大学院の設置不認可をめぐる経緯を記憶している身としては、少々複雑な気分にもなるのだが*11、「審議会答申」という呪縛と世論の逆風に負けて、何ら説得力のある「不認可」の根拠を示せないまま、行政側が白旗を上げてしまったのだから、“たら、れば”の話をしても仕方ないのだろう*12

個人的には、今回の一件のように、大臣の一声で振り回されるような事態を防ぐためにも、より狡猾な方法で“政策的”な後出し基準が適用されて涙を呑む者が出てこないようにするためにも、設置の可否を裁量的な「認可」にかからしめるような制度は、本来好ましくないと思うし、学校教育法に定められた「大学」の本質*13を実効性のあるものにするためには、設立後の「教育内容」を吟味することにより、大学をふるいにかけていくシステムの方が望ましいだろう、と思っている。

だが、「生きているものを殺す」ことがいかに難しいか、ということは、昨今の“法科大学院乱立”へのスローな対応を見ても明らかなわけで・・・*14

大学というものが、莫大な公的資金を頼りに運営されている機関であることを考えると、公的なコントロールを放棄して、「学生の評価に任せればいい」(ダメな大学、ということが明らかになればおのずから淘汰されるだろう)と割り切るわけにもいかない。


・・・ということで、素人がいくら頭をめぐらせたところで、そう簡単には解けそうもないこのパズル。

今回の件の“たら、れば”はともかく、どこから手を付けても「行政訴訟」の脅威にさらされそうな難解な問題に、勇気をもって手を付ける人間がこの先登場するのだろうか*15

“眞規子クライシス”の波紋が大きすぎたゆえに、今後の大学行政の行く末が、気になるところである。

*1:日本経済新聞2012年11月3日付朝刊・第2面。なお、日経紙の記者も、さすがにこれだけではバランスが悪いと思ったようで、このくだりの後に、「不認可という手法しかなかったのかは疑問」というトーンの記事を続け、秋田市長などの批判の声も掲載している。

*2:もちろん、その裏には、予備校との提携をうたった一部の大学の法科大学院設置が不可解にも認められなかった、という黒歴史もある。

*3:「合格率」問題が公に語られるようになったのは、第1回の司法試験が終わるか終らないか、といった頃だったと記憶しているが、あの「大量開設」を見た時点で、数年後、合格率が50%に遠く及ばない数字になる、ということは、誰にでも想像できた。

*4:一部に、現在の大学設置認可においては「準則主義」が採用されているから、一定の要件を満たしているのであれば、そもそも大臣の認可・不認可に裁量の余地はない、といった類の主張が散見されたが、学校教育法は、第3条で「学校を設置しようとする者は、学校の種類に応じ、文部科学大臣の定める設備、編制その他に関する設置基準に従い、これを設置しなければならない。」とし、第4条で、「次の各号に掲げる学校(注:「公立又は私立の大学」を含む)の設置廃止、設置者の変更その他政令で定める事項は、それぞれ当該各号に定める者の認可を受けなければならない。」と定めているだけであり、「基準を満たした場合に自動的に認可を与えなければならない」とまで明記しているわけではない。また、そもそも「設置基準」自体、解釈には大きな幅があることが指摘されている代物であり、審議会の答申も大臣の認可に際しての判断権を全面的に拘束するものではないから、“頑張れば”(具体的に言えば、不認可処分の時点で、公表に堪えうるだけの「不認可の理由」を用意できるのであれば)大臣レベルで結論を逆転させることも不可能ではなかった。

*5:日本経済新聞2012年11月6日付朝刊・第2面。

*6:もっとも、学校教育法139条には、「文部科学大臣がした大学又は高等専門学校の設置の認可に関する処分については、行政不服審査法 (昭和三十七年法律第百六十号)による不服申立てをすることができない。」という規定があるから、ここに挙げられている争訟手段の一つは使えないことになるのだが・・・。

*7:この辺の“わかりやすさ”が阿部先生の阿部先生たるゆえんだと思うが、そのご主張の是非はともかく、このコメントを掲載した時点で、日経新聞のこの問題に対するスタンスは明確に定まった、と言えるように思われる。一応、これに続いて新藤宗幸・千葉大名誉教授の「法的責任を問うのは難しい」というコメントも掲載されてはいるのだけれど・・・。

*8:なお、これと同時期に「まだ正式な『不認可』処分はしていない」という説明が出てきたことも同じように批判に晒されていたが、理由を紙に落とすことなく「処分」を行う、というのが行政手続上一般的か、といえばそうでもないような気もするので、この点について、あそこまで叩く必要はなかったような気がする。

*9:日本経済新聞2012年11月8日付朝刊・第3面。

*10:仮に設置者側が訴訟を提起したとしても、「設置基準」該当性判断の裁量の幅を認可官庁側に主張されてしまうと、かなり苦戦したのではないか、という気がする。

*11:堂々と「司法試験予備校」とのタイアップによる効率的学習の場の提供をうたっていた法科大学院が、設置基準のどこに抵触するのか?という疑義を抱かせるような経緯で不認可となったのに対し、法学部教育の実績がない法科大学院が、形式的要件を充足していることを理由に多数認可された(結果として、これらの法科大学院の多くは“劣化型予備校教育”とでも言わざるを得ないようなカリキュラムの提供を余儀なくされ、後日の評価でも散々指摘されるに至っている)。

*12:ちなみに、平成25年度開設予定として認可申請があった大学・大学院は、今年4月の時点では実は5校だった(http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/24/04/__icsFiles/afieldfile/2012/04/13/1319711_1.pdf)。それが、いつのまにか「大阪総合漫画芸術工科大学」が申請を取り下げ、「統合医療大学院大学」は早々に審議会から「不可」の答申を出され(http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/daigaku/toushin/__icsFiles/afieldfile/2012/06/18/1322181_1.pdf)、残っていたのが件の3校だった、ということになる。なりたての大臣に指摘されるまでもなく、昨今の「大学の質」論議を受けて、審議会側でも設置基準の運用は厳しめにしているだろうから、そこで「可」の答申を得た3大学の“穴”を探すのは、かなり難しかったとも推察される。

*13:学校教育法第83条では、第1項で「大学は、学術の中心として、広く知識を授けるとともに、深く専門の学芸を教授研究し、知的、道徳的及び応用的能力を展開させることを目的とする」、第2項で「大学は、その目的を実現するための教育研究を行い、その成果を広く社会に提供することにより、社会の発展に寄与するものとする。」と定義されている。

*14:なお、過去のエントリーでも書いたと思うが、自分は「新司法試験の合格率が低くなるから、法科大学院(ないしその定員)を減らすべき」という議論は、本末転倒の議論だと思っていて、“法科大学院を潰す”という方向性そのものを支持しているわけではない。

*15:田中文科相の戦闘意欲はまだ衰えていないのかもしれないが、就任早々、事務方や民主党内に大きな“借り”を作ってしまっただけに、この問題でこの先主導権を握るのは難しいのではないか、と常識的には思われるところである。

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