帰ってきたホワイトカラー・エグゼンプション

安倍首相が7年ぶりに政権を取り戻して以来、いろいろと“昔懐かし”的な施策が飛び出してきているのだが、14日付の日経朝刊1面に大きく掲載されたこの施策も、ずいぶんと懐かしい香りがする。

「政府は1日8時間、週40時間が上限となっている労働時間の規定に当てはまらない職種を新たにつくる方針だ。大企業で年収が800万円を超えるような課長級以上の社員が、仕事の繁閑に応じて柔軟な働き方をできるようにして、成果を出しやすくする。新たな勤務制度を2014年度から一部の企業に認める調整を始め、トヨタ自動車三菱重工業などに導入を打診した。」(日本経済新聞2013年8月14日付け朝刊・第1面)

記事によると、これはあくまで「実験的な採用」ということで、名前が挙がっている一部の企業のみを対象に認める、という建前になっているようだが、一体どういう形で現行の労働基準法との間で落とし前をつけるのか、気になるところではある*1

また、「プロフェッショナル労働制」(仮称)という振りかぶった名称を冠する割に、年収基準が、

「大企業の課長級の平均である年収800万円超の社員」

というのは、あまりにハードルが低すぎるように思われる。

仮に「課長級の平均」が本当に「年収800万円」という水準にとどまっているのだとしても*2、いわゆる管理監督者としての権限を与えられていないにもかかわらず、それと同等の扱いをする、という制度の性格と、一般的な社会通念からして、低くとも「年収1000万円」くらいを基準にしないと納得感は得られないだろう。

もちろん、そういったテクニカルな問題をクリアして、この制度が現実に導入されれば、我が国のホワイトカラーの働き方に、大きな一石を投じることになるのは間違いないところだと思うし、それ自体の意義は素直に認めていいのではないか、と自分は思っているのだけれど。


振り返れば、かつて、ホワイトカラー・エグゼンプション制度の導入が議論されていた頃の自分は、まさに、労働基準法の枠にがんじがらめに縛られて、

「自分のイメージ通りに働けない」

というジレンマに苦しんでいた状況にあった。

普通に残業時間を記録していけば、月の半ばくらいには、お世辞にも高い水準とは言えない三六協定の許容超勤時間を超えて、手続的にも非常に面倒なことになるので、騙し騙しタイムカードを引いて調整し、それでも、年間を通算すると、最後の四半期を残して優に上限を超えてしまう。

仕事は日々山のように来るし、自分もプロとして仕事を受けた以上は、全力を尽くして託された思いに応えたい。
でも、職場の体制強化も仕事の回し方の抜本的改善にもさして関心のない“管理する人々”は、「やれ今月の残業が○○時間」という数字だけを見て、口やかましく文句を言ってくる・・・。

自分のリズムとペースに合わせて働く時間を決め、その中で自分の持てる力をフル稼働させて結果を残す、というのが、ホワイトカラー、特に専門色が強いホワイトカラーの仕事の真髄であり、そこに仕事の醍醐味がある、と信じてやまなかった当時の自分にとっては、「自ら決めた時間で仕事をする」という最も重要な「権利」が、一律的な規制の下で制限される、という現実を(理屈ではやむを得ないとわかっていても)素直に受け入れることは到底できなかったし、それゆえ日々フラストレーションも溜まっていた。

そんなにっちもさっちもいかない状況で書いたのが、2006年末頃のエントリー(http://d.hatena.ne.jp/FJneo1994/20061228/1167328947)である。

ホワイトカラー・エグゼンプション」を単なる「残業代ゼロ」ルールとしか評価しない風潮が多数を占めていた当時、自分の叫びが受け入れられる余地はあまりなかったようで、件のエントリーはかなり燃え上がってしまったものだが、それでも自分は、心の中であの制度が公に認められる日が来ることを強く願っていたものだった。


あれから7年近い歳月が流れ、自分のポジションも変わり、今や、労働時間規制に縛られることなく、(よほどのことがなければ)自分の決めた時間で、存分に仕事ができる身分となっている。

今でも、「働く時間を自ら決める」というのが、ホワイトカラーにとって最も重要な権利だという認識に変わりはないし、日々生み出すアウトプットに対して正当な報酬が支払われている限りにおいては、「働く時間」そのものに対して、安易に法が介入すべきではない、という思いもそのまま抱いている*3

ただ、時間外手当が一切つかない身分になってみて思うのは、「成果」で労働の価値を図る、という発想一本槍だと、どうしても物足りない部分が残る、ということ。
一年通じて仕事をしていると、大なり小なり仕事量の“波”というのはやってくるし、月々でかかってくる負荷も大きく変わる*4

ただ闇雲にダラダラ職場にいるような慣行は改められて然るべきだが、反面、専門職の仕事の中には、時間をかけて丁寧にやることで始めて本当の意味での「結果」が出せるものも多々あるのであって、パッと見の仕上がりは同じでも、その後使い続けるなかで、時間をかけて丁寧に練り込んだものとそうでないものとの差が如実に現れることも多い。

にもかかわらず、月々淡々と同額の給与と手当が振り込まれるだけの日々を繰り返していくと、どうしてもモチベーションに影響するところはあるわけで、本エントリーの冒頭で、「年収800万円」といったレベルを基準にしてしまうと納得感が・・・というのは、この辺の事情も考慮して、の発想である。


おそらく、多くの会社は、このような制度が導入されれば、単純に「生産性向上」&「コスト削減」といったところを獲得目標に据えて、取組みを行うことになるのだろう。

だが、机上の計画でいかに「生産性向上」といったところで、実際に仕事をしている人々の納得感が得られなければ、かえって仕事の効率を害するだけに終わるし、生産性の向上などには到底結びつかない。

ゆえに、仮に、今後、この制度の導入を検討するのであれば、目先のコスト削減の誘惑だけにとらわれることなく、モチベーションの維持とのバランスも考えながら、柔軟な制度設計を行うべきではないか・・・*5、と思うところである。

せっかくの新制度案を、掛け声倒れで終わらせないために。

*1:記事には「秋の臨時国会に提出予定の産業競争力強化法案に制度変更を可能とする仕組みを盛り込む」とあるから、あくまで法律上の制度として新制度を設ける、ということなのかもしれないが、そうなると、「一部の企業のみを対象に」というところの根拠が良く分からないことになるし、そもそも「産業競争力強化法案」が労働基準法のルールに手を付けるものになるのだとすれば、そんなに簡単にできるものなのか、という疑問もある。

*2:個人的には、この「平均」のとり方自体、ちょっと眉唾だと思っているのだが・・・。

*3:五輪等の目標を掲げ、ライバルに一歩でも先んじたい、と念じているアスリートに対して、「一日の練習の時間は○時間」まで、といったような制限を課すのがいかに不合理なことか、というのは、改めて説明するまでもないわけで、目標の大きい小さいはあれど、プロとしての生き方を志向するホワイトカラーにとっても、同じ話は当てはまるのではないだろうか。

*4:基本的には“負荷かかりっぱなし”になることが多いとはいえ、それでも、年末や年度末と、今月のような時期とでは、ボリュームはやっぱり変わってくる。

*5:固定給部分の金額レベルを底上げできないのであれば、一定の固定給を支払ったうえで、労働時間数に応じた加算オプションを取り入れること、なども考えて然るべきだと思っている。

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