「2020年の第32回夏季五輪を東京で開くことが7日(日本時間8日)、アルゼンチンのブエノスアイレスで開かれた国際オリンピック委員会(IOC)総会で決まった。」(日本経済新聞2013年9月9日付け夕刊・第1面)
日曜日の早朝、投票はとっくに終わっているのに、かつての大晦日のレコード大賞のごとく最後の発表はギリギリまで引っ張られ、寝落ちしそうになった寸前に、ようやくジャック・ロゲ会長の手によって「TOKYO 2020」の文字が示された。
明らかにされた投票結果によると、1回目の投票の時点で東京は42票。
2位同点だったイスタンブール、マドリッドの26票に大差をつけた上に、1回目の投票で最大のライバルと思われたマドリッドが脱落したことで、事実上勝負は決したと言える*1。
最終の得票は60票。36票のイスタンブールに大差をつけた堂々の勝利。
都民ですらほとんどの人は大して関心を持っていなかった頃から、「何としても東京で。国民はみんな応援している」的なトーンで同調を迫る“五輪誘致活動”に、自分は決して好感を持っていなかったし、“広告塔”としてあちこちでのプレゼンやロビー活動に駆り出されているアスリートたちの姿を見て、(彼/彼女たちは心の底からの思いでやっているとしても)何度となく「気の毒だなぁ」という感想を抱いたものだ。
終盤で“フクシマ”が争点になりかけた時は、「やっぱりなぁ」という思いの方が強かったし、安倍首相が最後のプレゼンで「(汚染水の)状況は制御できている」と大見得を切った時は、何言ってんだこの人、と本気で怒りが込み上げてきた*2。
さらに言えば、自分にとって、“これまで見てきた中で一番楽しそうに見えた”五輪は、21年前のバルセロナ五輪だし、マドリッドの突き刺すような太陽、そして、スペインという国そのものが純粋に好きなので、下馬評通り、マドリッドが勝ち残っていれば、素直にうれしいと思えるはずだった。
だが・・・・
テレビ画面の向こう、地球の裏側で、IOC会長が掲げた「TOKYO 2020」という文字を見た時、ほっとした気持ちが込み上げてきたのは何たる不思議・・・。
これが、“フクシマ”が敗因にならなくてよかった、あるいは、イスタンブールという危うい雰囲気を漂わせる地で開催することのリスクを免れた、といったことへの安堵感から出てきた感情だったのか、それとも、これまでに費やされたであろう税金が無駄にならなくてよかった、という納税者としての感情だったのか、はたまた、太田雄貴選手をはじめ、決死の表情で見守っていた我が国の名立たるアスリートたちに恥をかかせなくて良かった、という気持ちから出てきたものなのか、正直良く分からない。
ただ、今回の招致活動で、もし「TOKYO」が負けていたら、日本のスポーツ界が、そして、日本という国そのものが失うものは、あまりに大きかったのは確かで、ここまで周到に準備をしてきた以上は、この結果で良かったんじゃないか、と自分は思う。
決定直後には、シンプルな現地からの“感動”を届けていたメディアも、24時間経つ頃には、早速、経済効果が何兆円とか、どこどこの業界が恩恵を受けそう、とかいった、取らぬ狸の皮算用を始めて、ひたすら煽りまくっている状況。
そして、そんな流れそのままに、今日の東京市場の株価は、極めて単純な反応を示し上げ一色。
特に、建設系の銘柄や小売、レジャー系の銘柄は非常に敏感な反応を示していて、遂にはREITまで活況を呈している。
現実には、これから7年の間に一体何が起きるか、なんて誰にも分からないわけで、今から“五輪銘柄”を仕込むなんて、本来ありえないことだと思うのだけれど・・・。
「五輪」効果で恩恵を受ける人・会社があれば、そうでないものもある。
都内に住んでいる人や、東京都に基盤を有する大会社のなかには、「五輪」によってもたらされる“経済効果”以上に持ち出しの多い負担を強いられるようなところも出てきてしまうかもしれない。
開催に向けたインフラ整備が進めば、東京は更なる発展を遂げるだろうが、前回の五輪が行われた時代とは異なり、経済全体のパイが決して拡大には向かっていない今、短期間の間、集中的に東京にお金が落ちることで、この国のバランスがより一層偏る、ということだって考えられる。
もちろん、開催後の財政負担やら、何やらにも目を向けなければならない。
下手をすれば、後々、「2020年が東京が、そして日本が輝いた最後の瞬間だった」ということにならないとも限らない。
それゆえ、今の時点で「TOKYO」という都市での開催を手放しで喜ぶわけにはいかないのだが、世界の人々にあれだけ強く“東京五輪の成功”を約束し、それをもって、ひとたび“やる”ということで決まった以上は、きちんとやり遂げないことにはどうにもならない、というのもまた事実なわけで。
浮かれて騒ぐだけでは何も生まれない、でも、殊更にネガティブな評価を唱え続けるだけ、というのも建設的ではない。
今は、本番の狂騒の前にできることを、それぞれの立場で考え、準備できること、協力できることがあるならばしておく*3、それがなければ、慌てず騒がず、歴史の一証人として、これからの変わりゆく東京の姿を見つめていく・・・
それが、成熟した国、日本においてふさわしい、「TOKYO 2020」の受け止め方なのではないかなぁ、と思った次第である。