心打たれる監督の言葉。

ここ最近の気分の悪いニュースを吹き飛ばすような、ドーハでのU-23日本代表の戦いぶりを、連日感極まる思いで見ていたのであるが、28日の日経朝刊に掲載された手倉森誠監督の手記を読んで、このチームへの思い入れがまたいっそう強くなった。

「かつてなく難しい方式の予選を戦ったのは運命だ。J1仙台監督当時、東日本大震災を経験した。生きたくても生きられなかった人がたくさんいた。自分だけが苦しいなんて思いは一切消えた。生かされ、日本を率いる任務を与えられた。そのこと自体が幸せだ。」(日本経済新聞2016年1月28日付朝刊・第37面、手倉森監督手記、強調筆者、以下同じ。)

あの大震災があったのは、手倉森監督がベガルタ仙台を率いてJ1に昇格した翌年のこと。
そして、リーグ再開後、地元の祈りを一身に背負ったかのような快進撃を見せ、思いのこもったインタビューで“被災地の心”を伝えていたことは、まだ記憶に新しい。

J2で低迷していたチームがJ1で優勝するレベルにまで駆け上がった背景には、もちろん戦術の向上や補強戦略など、様々な要素が絡み合っていたのだろうとは思う。
ただ、ホームタウンが未曽有の災害に直面した状況の下で、チームの目的を明確に定め、選手たちの潜在能力を引き出すことができたのは、やはりこの指揮官だったから、というところが大きかったのではないだろうか。

そして、「代表監督」という立場でも、使命感に裏打ちされた“有事”への強さを存分に発揮されていたのは、疑いないところである。

「現役時代、プロになるとちやほやされて自堕落になった時期がある。Jリーグ開幕前に住友金属工業(現J1鹿島)をクビになると、自暴自棄になって散財した。(略)そんな自分をNEC山形(現J2山形)が拾ってくれ、引退後は指導者としての道を開いてくれた。選手として花を咲かせられなかった分、指導者として恩返ししたい。」(同上)

反町康治監督、関塚隆監督、と、最近はJリーグで実績を残した後に、U-23代表監督に抜擢されるケースが続いている。
その意味で、手倉森監督がU-23代表で指揮を執っているのも、“定番路線”といえばそう。

ただ、名門大学から実業団に進み、選手として華やかな経歴を残してきた前任者たちと比べると、20代半ばにしてJクラブから追われた手倉森監督のキャリアはかなり異色だと言えるし、采配や選手起用の懐の深さは、どん底を知って腹を括ったからこそ・・・という見方もできる。

ロンドンのチームを「ベスト4」という歴史的なステージにまで引き上げた関塚監督ですら、まだJ2クラブの指揮官に甘んじていることを考えると、今大会の勝利&五輪出場だけで、何かが大きく変わる、ということはないのかもしれないが、ここからの数か月で、手倉森監督が再び偶然ではないサプライズを引き起こしてくれれば、未だ自国人に代表監督の地位を任せられないニッポンのマインドも大きく変わるんじゃないか、と思わずにはいられない。

そして、今年の夏、そんなふうに、歴史が変わる瞬間を目撃することができるんじゃないか、と自分は信じてやまないのである。

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