2016年10月14日のメモ

ついこの前まで、残暑が・・・と言っていたのに、気が付けばガクッと冷え込みがきつくなってきた。
いよいよ長い冬。これからが耐えどき、である。

配偶者控除をめぐる有識者のコメント

女性の社会進出を後押しする、というお題目の元、「配偶者控除」の撤廃が自民党から華々しく打ち出されて、どうなることかと思っていたら、大人の事情であっさり撤回。
メディアでは批判的な論調も多いのだが、個人的には、この制度の見直しと、「女性の社会進出」云々を結びつけるのはどうなのかな、と首を傾げていた。

そんな中、日経新聞の『経済教室』に、2回にわたって「配偶者控除見直し 残る論点」というテーマで有識者の論稿が掲載されている。

第1回の森信茂樹・中央大学教授の論稿*1は、大蔵省の税務畑出身という書き手のキャリアもあって、今の制度改正の方向性をフォローするものだから、さほど面白みを感じなかったのだが、第2回の三木義一・青山学院大学学長の論稿はなかなか面白かった。

「控除そのものが間違っているのか、適用要件が不合理なのか、明確に区別されずに議論されている。筆者は適用要件を見直すことはあり得るし、必要だとも思っている。しかし控除すること自体を否定するのであれば、代替措置を採用しない限り、違憲といわざるを得ないと考えている。」(日本経済新聞2016年10月13日付朝刊・第27面)

個人的には事情があってフルタイムで働けない(そのため、他方配偶者の所得で生計を立てている)人、というのは、性別を問わず存在するのであって、そういった世帯を保護するために「配偶者控除」という制度を設けることを一律に問題視するのはおかしい、と思っているだけに、上記のような指摘は実によく腑に落ちる。

そして、三木氏が最後に痛烈に書き残した一節に、この議論の問題の本質が現れているような気も。

増税策の方便として女性の社会進出が強調されているように思われてならない。」(同上)

職場での旧姓使用が今さら訴訟になってしまう空しさ

学校教諭が職場で旧姓を使用する権利を主張して提起した訴訟で、原告敗訴の判決が下されたとのこと。

「結婚後の旧姓使用を認めないのは不当だとして、日本大第三中・高(東京都町田市)の30代の女性教諭が同校の運営法人に旧姓使用や損害賠償を求めた訴訟の判決が11日、東京地裁であった。小野瀬厚裁判長は『旧姓を戸籍姓と同じように使うことが社会に根付いているとまではいえず、職場で戸籍姓の使用を求めることは違法ではない』として請求を棄却した。」(日本経済新聞2016年10月12日付朝刊・第42面)

判決文に接したわけではないので、裁判所がどういう論理で請求を棄却したのか、本当のところは良く分からないのだが、旧姓を用いることに「権利」性まで認められるかと言えば、ちょっと厳しいかなと思うところもあり*2、その結果、純粋な利益衡量に持ち込まれてしまうとどっちに転んでも仕方ない、ということになってしまうことは否定できない*3

もちろん、「学校」という極めて密接な人間関係で成り立っている空間の中で、「戸籍姓による個人の識別」の必要性がどれだけあるのか、という突っ込みは当然出てきて然るべきだし、高裁、最高裁レベルまで争う中で、結論がひっくり返る可能性は存在するのだけれど・・・。

個人的には、学校側で配慮することにそんなに大きな問題があるとは思えず、きちんと話し合えば内部で処理できるはずの問題が法廷での争いに持ち込まれてしまっている、ということに、学校運営法人側の未熟さを感じてしまい、少々空しい気持ちになったところである。

コストコスロープ崩落事件で建築士に逆転無罪判決

こちらもまだ判決文には接していないが、東日本大震災の際に「コストコ多摩境店」の駐車場スロープが崩落して8人が死傷した事故に関し、業務上過失致死傷罪で起訴されていた建築士が、13日、東京高裁(井上弘通裁判長)で無罪判決を受けたとのこと。

「高木被告は構造設計を担当。建物本体とスロープを強度の高い床でつなぐように設計したが、実際は弱い鋼板でつなぐ方法で施工されていた。スロープは震度5強〜5弱の揺れで崩落した。自分の設計内容を総括責任者らに正確に伝えていたかが争点だった。」(日本経済新聞2016年10月14日付朝刊・第38面)

これだけ読んでしまうと、起訴された建築士はきちんとやるべきことをやっていたわけで、構造物の強度に問題が生じたのは被告以前に設計を担当した建築士&施工側の問題ではないか、と思わずにはいられない。
にもかかわらず、なぜ、前任の建築士や施工側の統括責任者らが起訴されず、この建築士だけが起訴されてしまったのか。

本件では、途中で訴因変更がなされていることもあり、そもそも検察側の見立てに大きな誤りがあった、ということなのかもしれないが、いずれにしても、判決文をしっかり読んでみたい事件である。

「ギャラクシーノート7」とうとう販売打ち切りに。

最近、空港の掲示で、大きな「×」マークを付けられているのを見かけることが多くなっていた、サムスン製の「ギャラクシーノート7」。
自主回収で何とかしのごうとしていたものの、交換後の端末にも発火の報告が出た、ということで、とうとう市場からの退場を余儀なくされることになってしまった。

アップルとサムスンが、がっぷり四つの泥仕合を繰り広げていたのは4、5年前くらいの話だっただろうか。

あの時は、知財を振りかざすところにまで追い込まれていたアップルの方が分が悪いように思えたし、いずれ世界中のスマホ市場がサムスンに占拠されるのも時間の問題かと思っていたが、その後、“現地化”を進めてしぶとく生き残っているアップルに対し、サムスンは万全を期して投入したはずの最上位機種で大コケして、一気に市場の風向きは変わってしまった。

新興勢力の躍進も著しい今、あと5年もすれば、「アップル」という名前も、「サムスン」という名前も、懐かしい過去の産業遺産のサプライヤーとして記念碑の中に刻まれているだけ、ということになる可能性は極めて高いと思っているが、それまでの間、かつての“2強”がどういう命運を辿るのか、ビジネスの一つの教訓として眺めておきたい。

なぜ今さら「自由党」なのか・・・

生活の党の小沢一郎共同代表が、12日、党名を「自由党」に変更すると発表したとのこと。

小沢一郎氏の自由党といえば、新進党から飛び出し、前世紀から今世紀へのまたがり期を挟んで政局に絡み、一時は大きな存在感を発揮していた政党だが、確かあの時は、新自由主義的な政策遂行を党是に掲げていたはず。

あれから10年以上経ち、ポリシーが大きく左旋回してしまったように見える小沢氏が、なぜ今「自由党」などという党名を掲げるのか・・・。

結局、政策なんてどうでもいいんだよ、ということを象徴してしまっているようで、何とも言えない気分になる。

ノーベル文学賞ボブ・ディラン氏に

シンガーソングライターのボブ・ディラン氏にノーベル文学賞が授与された、ということで、一部では盛り上がっているようだが、自分は“世代”ではないので、さして関心はない。
強いて言えば、毎年毎年不可解にも“候補”扱いされる村上春樹に今年も賞が行かなかった、ということに安堵している。

*1:日本経済新聞2016年10月21日付朝刊・第29面。

*2:自分は当然ながら、憲法上の権利として保障されるべき、というポジションに立っているが、それが今の日本の法律家の中で多数を形成できる考え方、とまで言い切る自信はない。

*3:特に「裁判所」という組織は、裁判官から書記官まで、少なくとも公の文書上は戸籍姓を使う以外の選択肢が与えられていない世界なので、長くそういう環境に置かれてきた裁判官が、戸籍姓使用強制の合理性を高く評価するのもむべなるかな、という気はする。

google-site-verification: google1520a0cd8d7ac6e8.html