「給費制廃止」の不当さをどう争うか。

自分が当事者世代になることは免れたものの、一歩間違えば、というところもあっただけに、何とも言えない気分になる司法修習の「貸与制」化問題。

そして、“被害”を受けた元司法修習生たちが起こした訴訟の最初の判決が2つの地裁で出された。

「国が司法修習生に対し、給与に当たる月額約20万円を支給する給費制を廃止したのは違憲だとして、廃止後に返済義務のある貸与制の下で修習を受けた弁護士らが国に1人当たり1万円の損害賠償を求めた訴訟2件の判決で、東京、広島両地裁は27日、いずれも請求を棄却した。」(日本経済新聞2017年9月28日付朝刊・第43面)

「給費制廃止なんてけしからん」というのは簡単だが、それを「民事訴訟」の形で争うのは非常に難しい。
なぜなら、国家資格を与えるための養成制度をどう構築するか、などということは、まさに行政裁量が最大限に発揮される話だし、給費制か貸与制か、ということも、本来であればその裁量の枠内であっさり処理されてしまうような話だからだ。

今回の判決は、まだHP等では公表されていないようだし、当事者がどういう主張を行ったか、ということについても自分は関知する立場にない。

ただ、数年前にビラで読んだ原告側の主張は、確か「他の国家資格の養成制度に比して憲法14条1項に違反する」といった類のものだったと記憶していて、これだと、さすがに勝ち判決をもらうのは厳しいんじゃないかな、と思ったものだった。

もちろん、「じゃあどうするの?」と聞かれた時に、自分が他の方策を持ち合わせているわけではない。

過去に「給費制」の時代が長く続いていたこと、そして、今年に入ってから給費制の部分復活、と言えるような法改正もなされたことから、他の世代と比較した「谷間世代」の不平等性を論じる、ということも考えてみたが、それだけではやはり主張としては弱すぎるように思える。

それよりはむしろ「法科大学院は夜間でも通えるのに、司法修習は、(事実上)会社を辞めるか休職しなければ受けられないのはおかしい」、「そもそも、社会人が貴重なキャリアを1年も中断しなければいけないような意義が「司法修習」にあるのか?」といったところを前面に出して、「1年も無給かつフルタイムで人々を拘束するような制度を法曹養成プロセスに組み込むのは裁量の逸脱だ」という主張に持っていく方が、まだ筋が良いような気がするのだが・・・*1

個人的には、自分が経験した司法修習(特に実務修習)の数か月は何ものにも替えがたい経験で、自分を一回り成長させてくれたものだったと思っているし*2、今、原告で訴訟を提起している人々も、皆「司法修習」の制度自体にまで異議を唱えているわけではないのだろうから、上記のような主張に持っていくことには、なかなか難しいのかもしれない。

ただ、もし、自分が研修所に入所するタイミングが、「貸与制」の時期にぶつかっていたら、やはりすんなりと行く、ということにはならなかっただろうな、と思うだけに、「拘束するなら支給せよ」の原則をどこかで確立できないか、今も頭を悩ませているのである。

*1:過去の「貸与制」に関する自分の意見も、概ねその線に添ったものである(http://d.hatena.ne.jp/FJneo1994/20100917/1285260586)。

*2:今でも、あの贅沢な時間の中で見つめ直した仕事の技法のディテールが、節々で生きていると感じる時はある。

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