追いかける国の視聴者として。

平昌五輪の開会式。

最後の聖火リレーで“アンジョンファン”と聞いた時、あまりの懐かしさと変わりように、俄かには頭の中で「安貞桓」と変換できなかったことを除けば(笑)、大きなハプニングもなく、セレモニーとしてのプロトコルに主催国の独自性がうまく加味された良いイベントだったと思う*1

一昔前は、周りの東アジアの国の「国家的イベント」のセレモニーって、“気合い”は感じるものの、正直見て楽しいものではないな、というものが多かった。
それが、ソウル五輪から30年、これだけ洗練されたイベントをできるほど、成熟した国家になってきたのかと思うと、いろいろと感慨深いものはある。

細かいところでは、リオのハンドオーバーセレモニーの日本のアイデアが使われてるのかな、と思えるようなところもあったし、多少政治的な香りのする演出もあった。
また、何より全体的に「韓国らしさ」「アジアらしさ」が薄まって、ハングルのアナウンスがなければどこの国でやっているセレモニーなのか分からない、という突っ込みもあるのかもしれない。

だが、自分は「真似」も立派な技術の一つだと思っているし、いろんなところから取り込んだアイデアで、あの2時間以上の長丁場を乗り切れるだけの完成されたプログラムに仕上げた、という主催者の演出力は素直に称賛しなければならないだろう。

VRやドローンといった先端技術の使い方から、韓・洋を折衷した音楽、パフォーマンスの使い分けまで、絶妙なバランスの上に成り立っていたように見受けられたし、誰もが「最後はキム・ヨナだよね。」と思っている中で、聖火台のふもとにスケートリンクを用意して滑らせる、というのも、想像を超えた演出だった*2

そうなってくると、2年後、否応なく今回の演出と比べられてしまう状況で、日本がこれだけのオープニングセレモニーをすることができるのか、というのがどうしても心配になってくる。

20年前なら、「隣の国でこれだけできるなら日本だって」と言っても全く差し支えなかったし、現に多くの分野ではやっていたと思うのだけど、今はそう言えないのがつらいところで、産業界同様、今や謙虚に追いかける立場でやっていかないと、超えるどころか並ぶことすら難しいことになってしまうだろう。

ましてや、まだエンターテインメントの分野ではかの国に大きく水をあけていた20年前ですら、日本はやらかしてしまっているのだ・・・*3

隣の国にだけはいつまでも勝っていると思いたがる日本人は、どうしても運営のアラを探す方向に視点を向けがちなのだが、むしろ、良いものは謙虚に学び、“盗む”くらいの気持ちでやっていかないと、どんどん水を開けられるだけ。今回の五輪は、おそらく、次の五輪の関係者等、日本から視察に行く人も多いだろうけど、そういう視点は忘れずに見てきてほしいものだな、と思う次第である。

*1:その場にいた人は寒さに耐えるのに必死だったろうけど、テレビで見ている分には、リオの時のように間延びすることもなく、快適に視聴することができた。

*2:長野五輪での伊藤みどりさんに対する扱いと比べてしまうと、アスリートに対するリスペクトの違いをまざまざと見せつけられた感すらある。

*3:長野五輪」のオープニングセレモニーは、やっぱり歴史に残る“国恥”の一つだと思うのである。開催時間帯が昼間だったり等々の不運な要素はいろいろとあったにしても。

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