テレビの世界からキラリと光る作品を送り出し、そこから銀幕へと活動の軸足を延ばしていった(それゆえ、物語の“見せ場”を心得ていて、見る者を飽きさせない)、という点では、かつて自分が熱狂した岩井俊二監督とバックグラウンドが共通しているし、それでいて家族の姿を、そして社会に焦点を当てている、というところは日本の伝統的な映画界の潮流にも通じるところが多い、ということで、ここ数年では自分の中でも断トツの存在だっただけに*1、この偉業は素直に嬉しい。
そんな是枝監督が、日経紙文化面のロングインタビューの中で、以下のようなコメントを残している。
「映画にはビジネスや芸能など色々な要素がわい雑に入り込んでいて、だからこそ面白い。でも欧州の映画祭で向こうの映画人と話していて感じる映画の豊かさを、日本で感じるのは難しい。日本に帰ると、カンヌをワイドショーのネタとしてしか考えていない人がいますよね……。映画を語る言葉が成熟していない。」
「若い作家を育てるにはちゃんと文化助成の予算を確保すべきだ。ただ映画が国に何をしてくれるかという発想でしか文化を捉えられない人たちが中心にいる今のこの国の状況では、国益にかなう作品に金を出すという発想にしかならない。日本のコンテンツを外国に売り込むという発想しかない。それでは意味がない。」(日本経済新聞2018年6月1日付朝刊・第40面)
前半は、他の映画関係者のコメントでもよく見かける類のコメントだが、強烈なのは後半のそれ。
そして、これがまさに、自分のここ数年来のモヤモヤ感にストレートに嵌るものであった。
今の政権が掲げる「コンテンツ立国」という看板とその裏に透けて見える発想の浅薄さ*2、そして、商業性と文化性という映画の二大要素を両立させ自らの腕で世界への道を切り開いた現代日本のマイスター自身が、今の政策に対して批判の目を向けている、という事実は重い。
もしかしたら、「予算を確保するためには、同床異夢、こじつけでも『国のため』を掲げるしかないではないか」という反論もあり得るのかもしれないが、「国策」になった瞬間に文化というものは彩を失い、地に堕ちた存在になるのは、これまでの歴史が証明しているとおり。
是枝監督は、
「業界全体で若手を育てるため、フランスのように興行収入の何パーセントかを製作の助成に回してほしい。それをやらないと文化としての映画はどんどん細くなる。移民も含めたフランスの映画人がすごいと思うのは、自分たちが映画文化を担うというプライドと気概が明快にあることだ。アジアの若い作家がフランスの資金を獲得しようとするのも、フランスの制度がオープンだからだ。」
という提案をしつつ、最後には、
「日本の国内マーケットは細くなるし、多様性も欠けている。自覚的な作り手は海外に出て行くと思う。そうすることで、若い人の未来像も多様化していくのかなと思う。」
と「国」としてのマーケットに関しては、極めて悲観的な見通しを示しているのだが、その背景には、「国策で育てられた虚構のマーケットよりも、日本の外で日本にルーツを持つ真の文化人が育つこと」への期待が込められているような気もして・・・。
いろいろと考えさせられるところが多い、そんなインタビューコメントであった。