すぐに何かが変わるわけではないけれど。

本来であれば、「5月1日」という日は、「月の初め」ということ以外には何の変哲もない日だったはず。
それが、いろいろあって、約200年ぶりの記念すべき儀式の日、ということになった。

毎朝見ているカレンダーは昨年の暮れに配られたものだから、「祝日化法案」の成立には当然間に合っておらず、今日の日付の色も黒いまま。
世の中から隔絶されたところで過ごしていたら、今日が祝日で、ついでにその前後の日までお休みになっている、ということに気づかずに過ごしてしまうんじゃないか・・・というような状況だったのであるが、それでも「元号が変わる」という人生2度目の経験の真っただ中にいるとなると、多かれ少なかれ意識は変わる。

ところどころで揶揄されているように、今の日本で、日頃から「元号」を意識している人がどれだけいるか?、と言えば、役所やそれに近い仕事をしている人以外はどちらかと言えば少数派なのかもしれないし、これまで社内文書等の日付を律儀に「元号」で記録していた会社が今回の「年の真ん中での中途半端なタイミングでの改元」を機に西暦表記に改めた、という例も決して少なくはないと思う。

「昭和の次」ということで、それを肯定的に評価するかどうかにかかわらず、多くの人が「象徴」の地位の重みをストレートに受け止めた現上皇の時代と、これからの時代とでは、当然、「皇室」そのものの意味付けが変わってくる可能性があるし、その時代の終わりに、今多くの人が騒いでいるほど「令和」という言葉が人々の脳裏に残っているかどうかすら、自分は怪しいと思っている。

ただ、やっぱり、「変わり目」のムードは大事

激動の時代、変化の時代、として振り返られる「平成」の30年は、たまたまその背景にあった様々な時流が作り出したもので、元号が変わったからそうなったわけでも、増しては皇位が継承されたからそうなった、というわけでも全くない、というのはその通りで、今回だって、元々変わりそうだったものは時の流れとともに瞬く間に変わっていくことになるだろうし、変わりそうもないものはそう簡単に動かないだろう、ということは容易に想像がつく。

でも、そういった大きなうねりとは違うところで、一人ひとりが頭の中で、「改元」というきっかけを起爆剤として、「これまでしてこなかった何か」をすることを思い浮かべるだけで、長らく停滞した世の中の見え方が変わってくるかもしれない。そして、そういったものが誰もが意識しないまま寄せ集められることで、無意識のうちに新しい「時代」が作られることもあるんじゃないか、というのが、新元号初日の昼間から酒飲んで酩酊している自分の妄想だったりもする。

今、まさに「改元」どころではない転換期を迎えている筆者自身にこの「令和」という時代が味方してくれるのかどうか、確たることは何一つ申し上げられない状況ではあるのだけれど、活かせるきっかけは何でも活かそう、という思いで日々過ごしているだけに、この何十年に一度のタイミングが何かをもたらしてくれる、と信じて、少しでも歩みを前に進めたい。そんな思いで。

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