ここ数日、ちょっと慌ただしくて更新も滞り気味だったのだけど、気になったネタはあったので、少し遡ってエントリーを上げてみることにする(2019年6月16日更新)。
国内で企業不祥事の報道があるたびに、「なぜ防げなかったのか?」という声があちこちから噴出して、SNSも含めたメディア上で議論されるのは、もうすっかりお馴染みの光景。企業法務周りの業界の方(「中の人」ではないが、密接にかかわっている方々)と話をしても、「なぜ?」という問いを受けることは多い。
そして、業を煮やした(?)日経紙からは、とうとうこんなコラムまで出た。
「株主総会シーズンに入り、社外取締役を巡る議論が活発だ。第三者の視点で企業経営をチェックする機能は企業統治(コーポレートガバナンス)に欠かせない。だが現実には「悪い情報」が届かず、チェック機能が働かなかった例が相次ぐ。背景の一つには、情報を知り得たかどうかで責任の重さが変わる日本特有の事情がある。「お飾り」からの脱却を目指す動きも広がり始めた。」(日本経済新聞2019年6月14日付朝刊・第2面、強調筆者、以下同じ。)
おそらく、このコラムの問題意識の背景にあるのは、これに続く以下のようなエピソードだろう。
「スルガ銀の社外役員は、経営のチェック役として期待された機能を果たせなかった。報告書では、問題となった一連の事実を社外役員が「知り、または知り得た証拠もなかった」として善管注意義務違反などの法的責任は認められなかった。」
「当局に通報が寄せられ、悪評が広がっていた時期も内部監査やコンプライアンス部門は形骸化していた。取締役会に悪い情報は届かず、そのほかに情報を得る仕組みもなかった。「知らないことには責任を負えない」。これが日本の社外取締役の原則だ。」(同上)
確かに、あれだけの組織的な不祥事が起きていながら、「知り得ていない」から社外取締役に責任なし、と結論づけられることが腑に落ちない、という気持ちは分からないでもない。
取締役に完全な「結果責任」を負わせるような法制度の国は存在しないし(そんな制度にしたら、誰も社外役員など引き受けないだろう。)、社外役員によるモニタリング制度が発達している国ほど、免責されるロジックも手厚い、というのが自分の理解であり、不祥事を起こした会社における社外取締役の法的責任について、「日本特有の事情」という注釈を付けるのは、いささかお門違いだと思うが*1、これだけガバナンスについて口うるさく言われている時代なのだから、もっと何とかしろ、と言いたくなるのも理解はできる。
ただ、スルガ銀行の問題にしても、最近よく湧き上がる現場レベルの品質偽装等の問題にしても、「不祥事」が起きているのは「現場」であって、役員フロアの会議室ではない。
こと「取締役」という立場の人たちに関して言えば、求められている役割は、「取締役会」という機関を通じた経営上の意思決定への参画と、内部統制システム構築義務等を通じた企業の日常的な業務執行への間接的なモニタリングに留まるわけで、企業買収や大型プロジェクトの実行、といった重要な意思決定の局面で誤った経営判断をしないように意見を述べ、議論を形成することや、内部監査体制や監査役との連携体制の構築等について口を挟むことまでは当然求められるとしても、現場の末端の業務のやり方にまで首を突っ込んであたかも自らマイクロマネジメントを行うかのように「監視」する、というのは本来の職責ではないし、本気でそこまでやろうとしたら、いくら体があっても足りない*2のだから、「社外取締役」の力で末端の不祥事の芽を把握し、それを未然に防ぐ、というのは、そもそも制度の立て付け上無理がある、と言わざるを得ないのではないだろうか。
そして、これは、取締役会から離れた社内の「二線」「三線」の組織に関しても言えること。
もちろん、法務部門、財務部門、内部監査部門といった組織は、「社外役員」に比べればはるかに現場に近いところで日常的な業務執行に接することができるのだけれど、部門ごとの情報の壁や、あらかじめ決められた社内ルールの壁、というのは当然存在するわけで、事業を遂行する部署と「部門」が異なる限り、不祥事が顕在化するまでは、そこに直接手を突っ込むことは難しい。
自分は、本当に会社の隅々にまで法令遵守意識を叩き込み、「不祥事」を撲滅しようと考えるならば、法務・財務といった”機能”をコンプライアンス的な側面も含めて”見た目上”は事業部門側に完全に溶け込ませ、”中”から根本的に変えていくしかない、と思っているのだけれど*3、それが一朝一夕にできることではない以上、今は、一定の確率で「不祥事」が生じることはやむを得ない、と割り切って、むしろ「発覚後に誠意を尽くして対応する」方に、重点的にリソースを割く方がよほど世の中にとっては有益なはず。
何か起きるたびに、法令やソフトローをいじって、「上の方のガバナンス体制」に手を入れようとしてきたのがこれまでの日本のやり方(というか、日本に限らずこの手のアプローチは多くの先進国で共通している、といえるかもしれない)だったのだが、今行うべきことはそういうアプローチの「限界」を認識することだし、百害あって一利なしの「上から」の過剰な現場介入の方向性を改めて、逆に根元の方から”問題が発生しにくい企業風土”を作り上げていく、という「モデル」を、実際に一社でも二社でも世の中に広げていくことこそが、これからは大事になってくる、と自分は思っている。
時流は決して追い風ではない。でも、だからこそ、今、何が必要か、声を大にして唱え続けていきたい。
*1:しかも、明示的に情報が示されていなくても、目の前の取締役会議案にちょっと突っ込みを入れたら出てくるような情報を見落とした、ということになれば、「知り得た」という評価を受ける可能性も高いのだから、本来は「何もしない方が得」という話でもない。
*2:仮に身を削ってそこまでやるような献身的な社外取締役がいたとしても、今度は首を突っ込まれた現場や、本来そういった部署の業務の適正をチェックしている社内部署がより疲弊することになるだけで、良いことはほとんどない。
*3:それでも、あらゆる組織が生身の人間で成り立っている以上、会社の衣を被った「個人的」不祥事の発生を完全に防ぐことは不可能だろうが、それが「組織的」なものへと発展していくプロセスを遮断することは可能だと思っている。