ここ数年、仕事柄、海外に行くことが多かった。
「仕事柄」といっても、会社の予算で行ける機会は限られているので、「現地を見るだけ」なら休暇を使って自腹で行くことも多かったわけで、それならついでに、と、複雑なトランジットを駆使して、乗り継ぎ時間での入出国等も繰り返した結果、ここ2~3年で訪れた国は20か国超。
そして、そんな中で気づいたのが、イスラム文化圏の奥深さと、地中海・黒海を取り囲む地域の歴史の複雑さ・・・。
そういう経緯もあって昨年手にしたのが以下の一冊である。
- 作者: 臼杵陽
- 出版社/メーカー: 作品社
- 発売日: 2018/08/29
- メディア: 単行本
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あいにく、買ってから長らく本を開く機会もなかったのだけど、ようやくゆったりとした時間が取れるようになったのと、ちょうど中東&イスラム文化圏に行く用事もあった、ということで、長~い渡航時間も生かしつつ、目を通すことができた。
本書の著者は、中東地域研究を長く専門とされており、しっかりとした学術的なバックグラウンドもお持ちの方だけに、読み進めていくと、複数の歴史学者の文献を引用しながら、なるべく一面的な見方に偏らない「中東の近現代史」を伝えよう、とされていることが良く伝わってくる。
また、この地域の歴史はそうでなくても複雑なだけに、丁寧に書かれている本ほど、読み手にとってはツライ状況に陥ることも多いのだけれど、本書では、ところどころに各地域の時代を代表する人物の興味深いエピソードが取り込まれていたり、「現代」とのリンクが的確に織り交ぜられていたりするので飽きも来ない。
19世紀から第二次世界大戦までの歴史に6つの章がほぼ丸々割かれ、記述も非常に充実しているのに比べると、最後の2章で書き切られた第二次大戦後の冷戦期(ここで大体50年くらい)や、米ソ冷戦後現在に至るまでの時代(ここで大体30年くらい)は、元々情報量が多い時代だけにちょっと駆け足に過ぎるかな?という印象も抱いてしまうのであるが、それまでの6章で描かれた歴史が「1945年以降」の様々な動きの伏線になっている、というのが、本書がメインで主張したかったことの一つでもあると思われるので、前半から中盤までしっかり読めば、本書を手に入れた目的は達成できるのではなかろうか。
あと、本書の特徴としては、新旧の世界史の教科書の記述を一種批判的に引用している、ということも挙げられる。
著者の世界史教育に対する問題意識は、
「ヨーロッパに偏向した歴史はやめよう、その代わり世界の地域のすべての歴史を全般的に知らねばならないと唱えられて、そのような網羅的かつ詳細な歴史的事実で記述されている教科書を作ってみたら、あまりにも覚えることが多過ぎて、学ぶ者が嫌になってしまうというのが、今の世界史教育の陥ってしまった落し穴である。」(臼杵陽『「中東」の世界史』22~23頁(2018年、作品社))
というコメントに集約されており、著者自身、E・H・カーの言葉を借りつつ、「本書は東アジアに位置する日本の立場を念頭に置いて、地理的にはその対極に位置する『中東』の近現代史を再解釈しようという試みである。」(前掲23頁)と宣言されているのだが、この点については、自分自身にも反省すべき点は多い。
自分の時代の「教科書」の記述がどういうものだったかまではさすがに思い出せないのだが、大学でもその後も、この地域に関しては、基本的に「西洋史」と、「三国同盟&三国協商」「枢軸国&連合国」といった欧州(+米国)側の視点からしか歴史を眺めていなかったし、地域に特化した歴史を見る時は見る時で同時代の他地域の歴史をどこまで意識して考えていたか?、という問題はあったように思うので・・・。
本書では、日本との比較の中で、明治維新と同じような時代背景の下で「近代化」を迎えたにもかかわらず、植民地化の歴史をたどったエジプト*1や、早期にナショナリズムを具現化させた数少ない成功例であるトルコ共和国等も取り上げているのであるが、ちょっとした政治、政策のアヤで歴史が変わり、その結果積み重ねられたものが、現代に至るまで法体系も含めて社会の隅々に影響を与えている、という偶然の怖さがそこにはある。
世界の隅々で「『撃退した者』の視点」や「『統治・侵略された者』の視点」で遺されたモニュメントに接して、思わずドキリとさせられた経験はこれまでも良くあったし、これからも、もっともっと様々なところにまで足を伸ばしていかなければ、と思ってはいるのだけれど、外にいても、日本の中にいても、「逆の視点から俯瞰する」ことの大切さは変わらないので、そんなきっかけにもなればね、と思うところである。