「表現」と「アイデア」の境界線はどこにある?~「金魚電話ボックス」地裁判決への違和感。

数日前の夕刊にちょっとした記事が掲載され、SNS界隈でも話題になっていた「金魚電話ボックス」著作権侵害事件。

「水が入った電話ボックスの中で金魚数十匹が泳ぐオブジェが自身の作品に酷似し著作権を侵害されたとして、福島県いわき市の現代美術作家がオブジェを設置した奈良県大和郡山市の商店街側に330万円の損害賠償などを求めた訴訟の判決で、奈良地裁(島岡大雄裁判長)は11日、請求を棄却した。」(日本経済新聞2019年7月11日付夕刊・第13面)

自分は元々芸術の世界には縁の遠い人間だし、今でも到底この種の作品を芸術的観点から論評できるような識見は到底持ち合わせていない。
ただ、数年前、ミュンヘンのPinakothek der Moderneと隣のMuseum Brandhorstにたまたま行ったのがきっかけで、海外に行って隙間の時間を見つけると現代アートを探しに行くくらいのこだわりは持っている、という分野ではあったので、上記の記事とそこに掲載された写真を見た時に何か引っかかるものがあった。

本件はこれまでの経緯も相当いろいろある事件のようで、原告側の支援者が開設されたWebサイト(金魚電話ボックス問題と「メッセージ」 ならまち通信社)にかなり詳細な情報が掲載されているし、同Webサイトには判決文も早々とアップされている。

それは「表現」か?、それとも「アイデア」か?という、著作権法の世界の一丁目一番地で原告・被告が正面から争っている事件ということもあり、今後、様々な場面で他の専門家の方々のコメントに接する機会も多くなると思われるところではあるのだが、まずは、今、自分がこの事件と第一審判決に接して感じた素朴な疑問点を以下、書き残しておくことにしたい。

奈良地裁令和元年7月11日判決(H30(ワ)第466号)*1

本件の原告は、山本伸樹氏という福島県いわき市在住の現代美術作家。
被告は、「金魚電話ボックス」の管理主体だった(現在は撤去)郡山柳町商店街協同組合(以下「被告組合」)と、平成26年に最初にそれを設置した地元の団体の代表者(以下、「被告A」)。

事案としてはシンプルで、原告が「金魚電話ボックス」(以下「被告作品」)について、

「被告作品は原告が制作した美術作品(以下「原告作品」)を複製したものであって,原告の複製権,同一性保持権及び氏名表示権を侵害している」

と主張し、被告組合及び被告Aに対し、(1)被告作品の制作差止め、(2)被告作品を構成する水槽及び公衆電話機の廃棄、及び(3)損害賠償請求として330万円(使用料相当額100万円,同一性保持権及び氏名表示権の各侵害による慰謝料100万円ずつと弁護士費用30万円との合計)+遅延損害金の支払いを求めた、というものである。

先ほど紹介した原告側のWebサイトの時系列表によると、原告が提訴した平成30年9月19日の時点では、既に被告作品は撤去されていた。
それにもかかわらず原告が訴訟に踏み切った背景には、2014年2月の被告作品設置以降、原告と被告組合側の間で長らくすれ違いのやり取りが続いていた、という事情もあるようで*2、本来実務上は最も重要なポイントとなるはずの「なぜ本件が訴訟になることを防げなかったのか?」という観点から、この経緯だけでも教訓にすべき点は多いと思われるのだが*3、訴訟に持ち込まれてしまえば「被告作品が原告作品の著作権を侵害するか?」という一点に関心を向けざるを得ない。

そして、当事者が約半年超にわたって主張立証を行った結果、奈良地裁は以下のように判断した。

■争点1(原告作品の著作物性について)
「原告作品の基本的な特徴に着目すると,①公衆電話ボックス様の造形物を水槽に仕立て,その内部に公衆電話機を設置した状態で金魚を泳がせていること,②金魚の生育環境を維持するために,公衆電話機の受話器部分を利用して気泡を出す仕組みであることが特徴として挙げることができる。このうち、①については,確かに公衆電話ボックスという日常的なものに,その内部で金魚が泳ぐ、という非日常的な風景を織り込むという原告の発想自体は斬新で独創的なものではあるが,これ自体はアイディアにほかならず,表現それ自体ではないから,著作権法上保護の対象とはならない。また,②についても,多数の金魚を公衆電話ボックスの大きさ及び形状の造作物内で泳がせるというアイディアを実現するには,水中に空気を注入することが必須となることは明らかであるところ,公衆電話ボックス内に通常存在する物から気泡を発生させようとすれば,もともと穴が開いている受話器から発生させるのが合理的かつ自然な発想である。すなわち,アイディアが決まればそれを実現するための方法の選択肢が限られることとなるから,この点について創作性を認めることはできない。そうすると,上記①,②の特徴について,著作物性を認めることはできないというべきである。」
「他方,原告作品について,公衆電話ボックス様の造作物の色・形状,内部に設置された公衆電話機の種類・色・配置等の具体的な表現においては,作者独自の思想又は感情が表現されているということができ,創作性を認めることができるから,著作物に当たるものと認めることができる。」(強調筆者、以下同じ。)

■争点2(被告作品による原告作品の著作権侵害の有無)について
「前記1で判示したところによれば,原告が同一性を主張する点(筆者注:①外観上ほぼ同一形状の公衆電話ボックス様の造作水槽内に金魚を泳がせている点,②同造作水槽内に公衆電話機を設置し,公衆電話機の受話器部分から気泡を発生させる仕組みを採用している点)は著作権法上の保護の及ばないアイディアに対する主張であるから,原告の同一性に関する上記主張はそもそも理由がない。」
「なお,事案に鑑み,具体的表現内容について原告作品と被告作品との間に同一性が認められるか否かについて検討するに,前記(1)で指摘したとおり,原告作品と被告作品は,①造作物内部に二段の棚板が設置され,その上段に公衆電話機が設置されている点,②同受話器が水中に浮かんでいる点は共通している。しかしながら,①については,我が国の公衆電話ボックスでは,上段に公衆電話機,下段に電話帳等を据え置くため,二段の棚板が設置されているのが一般的であり,二段の棚板を設置してその上段に公衆電話機を設置するという表現は,公衆電話ボックス様の造作物を用いるという原告のアイディアに必然的に生じる表現であるから,この点について創作性が認められるものではない。また,②については,具体的表現内容は共通しているといえるものの,原告作品と被告作品の具体的表現としての共通点は②の点のみであり,この点を除いては相違しているのであって,被告作品から原告作品を直接感得することはできないから,原告作品と被告作品との同一性を認めることはできない。」
「したがって,被告作品によって,原告作品の著作権が侵害されたものとは認められない。」

冒頭の記事にもあるとおり、ここでの結論は、「被告作品は原告の著作権を侵害しない」というもの。
そして、既に出ている識者のコメント等を拝読すると、「アイデア・表現二分論」を前提に、このような結論が妥当ないしやむを得ない、という評価をしている方も多いように見受けられる。

だが、本当にそうだろうか?

著作権は(創作的な)表現を保護するものであって、抽象的なアイデアそれ自体を保護するものではない」という伝統的な理論に異を唱えるつもりは毛頭ないのだが、「電話ボックスの中で金魚を泳がせる」ということをストレートに「アイディア」と片付けてしまうことに対しては、自分は強い疑問を感じている。

原告としては、提訴前から説明されていたとおり、環境保全」のメッセージを伝えるために、様々な素材の選択肢の中から「電話ボックスの形状の造作物」と「公衆電話機」、そして「金魚」という組み合わせを選択したはずで、他に様々な選択肢がある中でこの組み合わせを選択して自らの思想・感情を伝えているのだから、これを「アイディア」として保護の射程外に置いてしまうのであれば、現代的なアートの本質的部分が著作権によって保護される可能性はほとんどなくなってしまうといっても過言ではない。

また一方の被告側としても、「環境保全」のメッセージを伝えたいのであればもちろんのこと、単に特産の「金魚」を目立つ方法でアピールしたい、という意図で創作行為を行う場合でも、屋外でのディスプレイ方法の選択肢は他にいくらでも存在するはず*4

もし仮に原告作品・被告両作品の共通点が、「遠い地を流れる水の言葉に耳を傾け,美しい水と環境を守ろう」*5という創作のコンセプトだけだったとしたら、それは単なる抽象的なアイデアの類似に過ぎず、著作権侵害が成立する余地はない、ということになるだろう*6

しかし、ここで問題になっているのは、原告が上記のようなコンセプトを実現するために素材を選択し、創り上げたものの類似性なのであり、それはまさにイデアの先にある「表現」の類似性の問題として把握されるべきものではないだろうか?

もちろん考え方ひとつでどちらにも転ぶ話だし、上記のような考え方に対しては、結論の妥当性とも合わせて賛否両論あるところだとは思うが*7、自分としては、奈良地裁の判断は、現代アートとその表現者への理解を欠き、「アイデア・表現二分論」の判断の出発点を誤ったもの、と評価されても仕方ないのではないか、と考えている。

また、百歩譲って「外観上ほぼ同一形状の公衆電話ボックス様の造作水槽内に金魚を泳がせている」という点を「アイディア」とする裁判所の判断を認めるとしても、「造作水槽内に公衆電話機を設置し,公衆電話機の受話器部分から気泡を発生させる仕組みを採用している点」についてまで創作性を否定してしまうのは明らかに行きすぎだろう。

奈良地裁は「公衆電話ボックス内に通常存在する物から気泡を発生させようとすれば,もともと穴が開いている受話器から発生させるのが合理的かつ自然な発想である」とし、「アイディアが決まればそれを実現するための方法の選択肢が限られる」として、この部分の創作性を否定しているのだが、被告作品が「テレ金」として2011年に水都大阪2011で展示された際の動画*8を見ると、「泡」は明らかに受話器ではなく「電話ボックスの下」から吹き出しているし、この例を見るまでもなく、気泡を発生させるための仕組み(表現)の選択肢は他にいくらでもある

なお、本判決は、判決文の構成からしてそもそも分かりにくいところがあって、「争点1」で原告作品の著作物性をきっちり検討し、創作性のある部分を特定して、いわゆる「二段階テスト」のようなアプローチをとっているかのように見せながら、「争点2」の判断においては、原告作品・被告作品の共通点を抽出し、その部分の創作性を検討判断する、という「濾過テスト」的なアプローチも採用しており、加えて最後に、「全体比較論」により「直接感得可能性」を判断したのか?と思わせるような説示まで盛り込まれている。

このような複雑(?)な構成となった背景には、原告側が「原告作品(全体)に著作物性が認められること」にこだわった主張を展開した*9、という事情があるのかもしれないし、それにもかかわらず、原告側で「被告作品との同一性」を主張したポイントが裁判所が創作性を認めたポイントと完全にずれてしまったことで「二段階テスト」が機能せず、”念のため”の「濾過テスト」で判決をまとめざるを得なくなった可能性はあるのだが*10、仮にそうだとしても、本件の特性に鑑みると、最後の説示(共通点以外を考慮して「被告作品から原告作品を直接感得することはできない」としたくだり)は明らかに蛇足ではないかと思われる*11

控訴審でどう争うか?

さて、原告側のWebサイトによると、「原告は、判決後の記者会見で、控訴の意向を表明した」ということである。

そうなると、次の段階での争い方が当然問題になるわけだが、既に述べてきた趣旨により、原告側には、「現代アートの世界で、著作権法上のアイデアと表現の境界はどこに置かれるべきか?」ということを正面からきっちりと主張してほしい、というのが自分の思いである。

また、仮に地裁判決同様、「公衆電話ボックスの中で金魚を泳がせるのは『アイデア』に過ぎない」という判断になるとしても、「受話器が水中に浮かんでおり、そこから気泡が発生している」という点については、同一・類似性*12に加え、保護される表現としての創作性を徹底的に強調することで、裁判所の最終的な結論を動かすことは十分可能だと思われる。

一方、原告側が上記主張によって裁判所の心証を動かした場合に、被告側が反論を試みるとしたら「依拠性」の部分だろうか。

地裁判決では「同一性」一本で請求が退けられているため、「依拠性」については全く判断されていないのだが、原告・被告双方の主張のレベルでは、この点に関しても双方の主張は真っ向から対立している。そして、原告作品が2004年以降しばらく公の場に出ていなかったこと(原告Webサイトの時系列による)、被告作品は当初、京都造形芸術大学の学生によって2011年に制作されたものであること(この学生たちは、原告作品が週刊誌等で紹介されていた2000年前後の時期、まだ小学生くらいの年代だったと推察される)等を考えると、少なくとも最初の制作の時点では、被告作品が原告作品に「依拠」せずに制作された可能性があることは否定できない*13

もちろん、「テレ金」発表以降は、原告側でも自らの作品の存在を主張して積極的にアクションを起こしているから、「被告作品」を「『テレ金』に基づいて原告のアクション以降に制作された作品」と定義するのであれば、依拠性も当然に認定されてしまうことになるが、地裁判決では「テレ金」=「被告作品」で被告Aがそれを「承継」した、と認定されている*14

被告作品が、「テレ金」から「金魚電話」、さらに「金魚電話ボックス」という変遷を辿る際に、原告作品への”擦り寄り”等がなかったか*15、という点については、原告側でも主張してしっかり審理を尽くした方が良いと思われるのだが、いずれにしても、「電話ボックスの中で金魚を泳がせる」ことが一つの「表現」として認められる場合であっても、偶然被告が同じ表現にたどり着く可能性までは否定されない、ということは、念のため強調しておくことにしたい。

なお、蛇足かつ原告の意向には即しないことかもしれないが、「アイデア」と「表現」の微妙な境界線の上で争われている本件では、原告側で著作権侵害の主張に加えて一般不法行為に基づく主張をしておくことにも意義はあると思われる。特に、原告の主張に出てくる「『大和郡山のパクリ』と言われた」といったようなエピソードが現に多々存在するのであれば*16、被告側の依拠性を立証した上で、無形損害が生じていることを主張する手もあるのではないか、と思った次第である。

以上、かなりの長文となってしまったが、また1年後くらいに、よりクリアな高裁判決が出ることを期待して、ひとまず筆を置くことにしたい。

おまけ

まだまだ梅雨明けには遠そうな雰囲気だが、それでも蒸す日には一服の清涼感を、ということで、今回の事件のことを考えながら思わず買ってしまったのがこちらの商品。

実のところ、この手の金魚菓子(特にゼリーを「水」に見立てて金魚が泳ぐ姿をかたどったもの)も複数のお店が売っていたりするのだが、さすがに金魚をゼリーに閉じ込めるのは「アイデア」だよな・・・?、と食べながら思った三連休の中日であった。

*1:民事部・島岡大雄裁判長。

*2:ただし、あくまで原告側Webサイトに基づく推測である、という点は念のためお断りしておきたい。

*3:端的に言えば、原告側が「原告作品との同一性が保たれたものが展示されるのであれば、著作権使用料は一切要求しない」と宣言している状況で、なぜ被告組合側が意地になって突っぱねる必要があったのか、という点に尽きる。うまくまとめれば”美談”になったかもしれない話(しかも、一度はまとまっていた話)が権利紛争化する、というのは、仮に最終的に勝負に勝ったとしても、決して好ましいこととは言えない。

*4:「街角にある何気ないもの」の中で金魚が泳いでいる意外感を強調したい、というのであれば、最近あちこちに置かれている「透明ゴミ箱」を使ったって良いわけである。そもそも、原告作品が最初に公表された20世紀とは異なり、今は「電話ボックス」それ自体が街角ではほとんど見かけないようなアイテムになってしまっているのであり、あえてそれを用いる必然性、偶然性も正当化しづらい状況にある、という点にも留意する必要があると思われる。

*5:原告訴状6頁参照。

*6:流しそうめんのといを川に見立てて、本物の鯉を泳がせる」といったようなアートなら、そこに公衆電話機が登場したとしても、著作権侵害になる余地はない。

*7:コンセプトに基づく素材の選択まで著作権法上の「表現」として保護されてしまうと、現代アートにおいて自由な表現が認められる余地が狭まってしまう、というのが想定される最も有力な反論だと思われるが、マルセル・デュシャンのようにほぼ「素材」そのままを使っているような場合ならともかく、本来的な用途とは異なる形で複数の素材を組み合わせることで一つの「作品」を創り上げているような場合であれば、「その組み合わせの模倣を認めた上で細部の表現を競い合わせる」よりも、「素材の組み合わせそれ自体の選択を競い合わせる」方が、文化の発展には期するのではないか?というのが自分の意見である。

*8:https://www.youtube.com/watch?v=7zGzb8PtWa8&feature=youtu.be、原告側Webサイトのリンクより。

*9:提訴に至るまでの原告側の発出文書や発言等を見ると、この点へのこだわりは強く感じられるところである。

*10:もっとも、原告側のWebサイトに掲載されている「訴状」(http://narapress.jp/message/2018-09-19_complaint.pdf)を読む限り、原告側は、「対比表で相違点を明確にした上で一致点に創作性があることを主張する」という最近のスタンダードな主張構成をしているように思われ、主張を整理した裁判所の側で構成を複雑にしてしまった可能性も否定できないのだが・・・。

*11:なぜなら、本件は「全体比較」をすれば当然「類似する」「直接感得できる」という判断に傾くタイプの事例だから。裁判所としては、”創作性が認められない部分”を省いた上で、残りの相違点と共通点を比較したらどうなるか、ということを言いたかったのだろうが、全体から見ると「省かれなかった」部分の割合はあまりに小さいし、釣りゲーム事件(知財高判平成24年8月8日)のように、「相違点」と「共通点」の間に何らかの「まとまり」があるわけでもないので、結論を導く上での説得力も欠く説示になっているように思われる。

*12:なお、第一審では複製権侵害のみの主張となっているようだが、本件は、翻案権侵害も当然主張されるべき事件だと思われる。

*13:原告は学生やその指導教授に「十分アクセス可能性があった」と主張しているようだが、著作権法上、著作物を制作しようとするものがそれに先立って第三者の著作物を調査する義務はないし、このレベルの「可能性」だけでは、「依拠性」の立証としては不十分、というべきだろう。

*14:原告の主張は明らかにこの前提とは異なる事実に則って行われているように見えるのだが、判決文上はなぜか「当事者間に争いがない事実並びに証拠及び弁論の全趣旨により容易に認定できる事実」とされている。こういった点も、第一審判決に何となく不安を抱く理由の一つである。

*15:先ほども指摘したとおり、「受話器から出る泡」は、当初の「テレ金」にはなかったもののように思われるため、「被告作品」がどの時点で「完成形」として制作されたのか、という点については、もう少しきっちりと審理し、認定したほうが良いのではないかと思うところである。

*16:原告のWebサイトで紹介されているツイート程度の話だと、それだけで請求を立てるのはちょっと難しいかもしれないが。