「甲子園」に見る「人材育成」の光と影。

しばらくバタバタしていて、家に届いたまま放置してしまっていたのだが、ようやく読んだ直近のNumber誌。
特集は季節を反映して、ここ数年この雑誌が看板にしている「夏の甲子園」絡みの内容で、特に高校野球の「教育」的観点を強調した構成になっていたのだが、先日の大船渡の一件*1との関連で、ちょうどいい具合にタイムリーな記事が多いな、と思いながら眺めていた。

何といっても、最初に出てくるのが、大谷翔平選手と菊池雄星選手、そしてあの岩手県が誇る甲子園常連校・花巻東のチームメイトたちが、そろって「佐々木洋監督の教え」の素晴らしさを語る企画で、監督ご本人こそ登場しないものの、「『楽しい』より『正しい』を。」(大谷選手の記事タイトル)とか、「監督を男にしたかった。」(菊池選手の記事タイトル)といった美しい感じの記事が続く。

確かに、菊池選手も大谷選手も、高校時代からの注目そのままにプロでも活躍し、遂にはメジャーリーグに進出する、という夢(目標)まで叶えているし、その原点になっているのは、既に「先進的な指導者」という評価が定着しつつある佐々木監督の、高校時代の教えがある、ということはあちこちで言われていることだから、”真剣勝負を経ながら良質の素材を開花させるために育てる場”という高校野球の「光」の部分を語るには、まさにうってつけだったのだろう*2

で、そこまでは理想的な展開だったのだが、だんだん時代が遡り、伝統校、強豪校の話になってくると様相が変わってくる。

山の中で疲労骨折するまで全力疾走させられたエピソードが出てくる大阪桐蔭高校、春の選抜で1回戦で負けたことを理由に主将交代を言い渡されたエピソードが出てくる横浜高校。いずれも出てくる選手は、今プロで活躍できている選手たち(中田翔選手、近藤健介選手)なので、振り返って「良い話」にできるのだろうけど、読む側には、そういう厳しさの中で表に出ることができないまま人生を歩んでいる野球部員たちへの想像力を働かせることも多分必要になる。

そして極めつけは、PL学園研志寮 理不尽の先の光と清原和博。」というタイトルの記事*3

副題に「昭和の象徴」とあるとおり、まさに一時代前、今では野球部すら消滅してしまった学園の話とはいえ、”ホラー小説か!”と突っ込みたくなるようなおどろおどろしい話がこれだけ生々しく書かれていると、子供の頃、テレビの中のキラキラした「PL」しか眺めてこなかった者としては、何とも言葉が出てこない・・・。

勝者に当てられるスポットライトがあまりに神々しく、(ある程度のところまで行けば)敗者にすら注目が向けられる、という点で、「高校野球」という舞台は今に至るまで特別な存在になっている。そして、それゆえに、そこでの指導者のやり方や言動が一種の「組織論」「人材育成論」の文脈の中で使われることは多いし、本誌もまさにそういった企画になっている。

好き嫌いはあれど、本誌に出てくる”名将”たちの振る舞いや言葉には、なるほどと感じさせられるものが多いのも間違いない。

ただ、人生表裏いろいろ見てきた世代の人間としては、様々な”称賛”も”批判”も多くは”後付け”の話のように思えてならないところもあって、「甲子園で活躍して、その後も安定した人生を送っている元球児」とか「甲子園には出られなかったけど、その後、プロやアマチュアの世界で野球人として生きていけている元球児」の回顧だけで「誰かのやり方」のイメージを肯定的に膨らませるのは、ちょっと危険なところもあるのではないかと思っている。

そのやり方が肌に合って、未だに恩を感じている人もいれば、いろんな事情でそれが合わなくて、未だに「あの頃」がトラウマになっている人もいる・・・

そういう光と影があるのが「組織」の宿命だし、「人材育成」の限界だと思うので*4

なお、Numberの特集は次号も続くようなので、おそらく大船渡高校の「登板回避」問題もその中で取り上げられるのだろうけど、今号で興味深かったのは、「高校時代の東海大相模での3年間は辛く、苦しい思い出しかなかった。」と語り、自ら夏の神奈川県大会で連投を強いられた菅野智之投手*5が以下のように語っているくだり。

「県大会で優勝して甲子園に出て、そこでまた優勝することだけが高校野球じゃない。指導者や周囲がそう考えれば、もっともっと戦い方も変わってくる。一番手っとり早いのはルールとして、球数制限を作ること。試合のスケジュールもそうですし、燃え尽きないための普段からの導き方、コーチングが指導者の大人たちに求められるところなのかなと思いますね」(65頁)*6

そして、「エンジョイ・ベースボール」を掲げる慶応義塾高校の森林貴彦監督が、

「どうして丸刈りなんですか?と子どもに聞かれた時に『高校野球は昔からそうだったから』と大人が答えるのは悲しすぎませんか。因習がそうさせているに過ぎないんです。」
「今までの社会は、監督、先輩の言うことを素直に聞くという意味で、高校野球で育った人材が高く評価されてきました。高度成長期だったら、それでよかったのかもしれない。しかし、これからは違います。」
(メディアに対して)「甲子園を感動的に報道する『文法』が存在していると感じます。」(以上75頁)*7

と、自校のリベラルな視点から現状に異議を唱えた上で、自分たちのスタイルを主流にするためには「勝つこと」しかない、と言い切り、

「このスタイルで甲子園で優勝したらどうなるか?日本のスポーツ界に大きな影響を与えられるはずです。」(同上)

と断言されているところはカッコいいな、と思うと同時に、アプロ―チが菅野選手が語るそれとあまりに対照的で、これまた考えさせられることになった*8

戦術や指導法の良しあしを示す指標として、目に見える「結果」というものがあるのが競技スポーツの良いところなので、好みのスタイルの監督なりチームなりには、勝ち負けにこだわって「勝って」ほしい、という思いはある一方で、そこを突き詰めすぎると元のスタイルまで変容しかねないのでは? という疑問もわいてくるわけで・・・。

これから始まる夏の全国大会で飛び出すのが「美談」なのか「罵声」なのかは蓋を開けてみないと分からないけど、自分は、その両者の影にあるあれこれを想像しながら眺めてみたいと思っている。

*1:エントリーは「非常識」でも「英断」でもない、冷静な判断。 - 企業法務戦士の雑感 ~Season2~を参照のこと。

*2:菊池選手と同期で明豊戦で決勝タイムリーを打った川村悠真主将が、岩手大を経て母校のコーチを務めている、というエピソードも実に美しいストーリーである。

*3:鈴木忠平「PL学園研志寮 理不尽の先の光と清原和博。」Number983号47頁(2019年)。

*4:誰にも嫌われず、誰にも苦痛を与えなくなければ、「存在感のない」指導者であり続けるのが一番の方法だと思う。もちろん、自分はそれを勧めるわけでもそれを目指しているわけでもないのだけれど、昨今の世相からして、そう遠くないうちに「何もしない」ことが指導者、管理者が生き残る最善の道、という方向に行ってしまいそうな気もして心中は複雑である。「高校野球」と違って、実際のマネジメントの世界では、分かりやすい「結果」で方向性が間違っていないことを示すのが難しいだけに、なおさら・・・。

*5:結局、チームは決勝で桐光学園に敗れ3年間で一度も甲子園に出場できないまま高校生活を終えた。

*6:鷲田康「遠回りは、意外と近道。」Number983号62頁(2019年)より。

*7:生島淳「Enjoy Baseballの正体。」Number983号72頁(2019年)より。

*8:奇しくもこの夏の予選では、4回戦で東海大相模慶応義塾高校が対戦し、慶応が3-16で5回コールド負け、という結果となっている。

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