「論究ジュリスト」という「ジュリスト」のスピンオフ的な季刊誌があって、長らく購読していながら、忙しい時はどうしても優先順位が落ちるものだから、ずっと積読にしてしまっていたのだが、ちょうど余裕も出てきた夏の時期にちょうどいいタイミングで届いた、ということもあって、珍しく開いてみた。
そしたら運のいいことに「AIと社会と法」という連載(第6回)のお題がちょうど「著作権」。
先日の法律時報の特集記事に続き、実に旬なテーマだったので、ここで少しご紹介してみることにしたい。
宍戸常寿[司会]=大屋雄裕=小塚荘一郎=佐藤一郎=奥邨弘司=羽賀由利子「AIと社会と法-パラダイムシフトは起きるか?No6/著作権」*1
確認してみたら、この連載が始まったのは昨年春号から。
第1回から登場する宍戸教授、大屋教授、小塚教授、佐藤氏に、テーマに応じてゲストの先生方が入る、というのが定番の構成のようで、今回は自称”テック系著作権法研究者”の奥邨弘司・慶大教授と、先日の著作権法学会でも登壇された国際私法の羽賀由利子・金沢大准教授のお二人が加わる、という構成である。
そして、論じられている内容をざっと挙げていくと、以下のような感じになるだろうか*2。
1「AIの学習用データに関する著作権問題」(139頁)
2「AI作成コンテンツに対する保護」(139頁~144頁)
2-1)「AI作成コンテンツに著作物性を認める場合の問題」(141頁~142頁)
2-2)「AIは著作者か?」(142~144頁)
3「AIによる著作権保護」(144頁、148~150頁)
4「AIによる著作権侵害」(144~147頁)
5「EU新著作権指令について」(147~152頁)
6「AIと著作権以外の知的財産法との関係」(152~154頁)
先日の法律時報の特集(著作権に関しては上野達弘教授、横山久芳教授が執筆)では、もっぱら上記「1」と「2」にフォーカスして議論が展開されていたように思われるが(以下リンクもご参照のこと)、今回の記事では、「1」のところは「平成30年著作権法改正で対応済み」*3ということであっさり片付けられており、もっぱら「2」に議論の中心が置かれていること、さらに進んでAIを著作権保護ツールとして用いる場合の問題点や、AIによる著作権侵害の可能性にまで議論が発展している、という点に特徴があるといえるだろう。
k-houmu-sensi2005.hatenablog.com
「法律時報」の特集で掲載されていた各論文は、別所氏や平嶋教授の論文に象徴されるように、「AIが人間の手を離れて勝手に創作し始める」というところまで想定するのは過度な飛躍では?という意識の下で書かれていたように思われるし、どの論文も、基本的には「現行法の枠組みの中でどう整理し、解釈するか」というアプローチに貫かれたものだった。
これに対し、今回の記事では、「自律的に創作するAI」を念頭に置いた発言もあちこちに散見され*4、(好き嫌いは分かれるところだろうが)それが、参加者の著作権法のパラダイム転換の必要性を示唆するようなコメントにもつながっていて、なかなか興味深い。
例えば、
「表現が仮に似ていたとしても、似たところがあったから依拠しているという推認をするという扱い自体が、実は今後、再考を迫られるのではないかと感じました」
「アイディアを持たずに、表現だけを高速で大量に生成する主体、機械が現れた。そうしますと、そこに保護すべき本質があるのかという問題になってきたように感じられて、実はアイディアと表現の関係が再検討を迫られているということなのかと思いました。」(以上、小塚141頁、強調筆者、以下同じ。)
「著作権=人間の知的成果、ということをあまり強調しすぎますと、近い将来、AIがどんどんコンテンツを生み出し、我々が普段接するコンテンツの多くがAI製という時代が来ると、著作権法は、『人間が作ったコンテンツです。珍しく貴重なものです』という具合に、国宝とか骨董品とかを保護するような法律になりかねないような気もします。それでいいのかどうか。そうではなくて、著作権法は、現在同様に、我々が日常接するコンテンツを保護する法律という位置付けを維持するのであれば、人工知能が作るものも完全には無視できないのではないか、というふうに思っております。」(奥邨143頁)
といったようなコメントの数々。
もちろん、議論が「AIが自律的に生成したものは著作物にならない」という伝統的解釈からスタートしている点に変わりはないのだが、「AIが自律的に生成」する時代の到来が「目の前に迫っている」と捉えるのか、それとも「まだまだ先の話」と捉えるのか、という背景意識の違いが、今回の記事を「法律時報」の特集記事とは大きく様相を異にするものにしており、世の中全般の「AI」をめぐる議論の様相とも合致するなぁ・・・と、思った次第で、上で引用した以外にも、いろいろと示唆的なコメントが出てくるので、関心のある方は是非、実際に手に取ってご覧いただければ幸いである*5。
ちなみに、この手の話題は、特に最近活発に議論されるようになってきているが、自分が大学院にいた21世紀の初めころから「自動生成創作物」という存在は、田村先生の著作権の教科書にも出てきているくらいで、決して「真新しい」話ではない。
あの頃に比べると、「AI」がよりリアルに社会に浸透する兆しを見せてきているとはいえ、それを人間が創作過程で「道具」として使っているだけであれば、使用者たる「人間」に権利を与え責任を負わせる、という整理で何ら問題はないと思われるし*6、仮に創作過程の全てをAIが担うような時代が到来したとしても、「コンテンツを世に出すための動機付け」を与えるのが人間である限りは、その「人間」に権利を与え責任を負わせる、ということで何ら問題ないのでは?*7という思いは、21世紀の初め頃から全く変わっていないわけで、今後展開される議論も、あまりトリッキーな方向には行ってほしくないな、と思わずにはいられない。
あと、今回の記事にも出てくる”僭称”の問題に関しては、前回のエントリーにも書いた通り、仮に「自分が著作者だ」と”僭称”する者がいたとしても実質的な問題は生じないのでは?*8というのが自分の考えではあるのだが、この点に関しては、最初に裁判所で争われる際の構図が、「AIを使った人 vs 同一・類似創作物の利用者」なのか、それとも「AIを使った人 vs そのAIを開発した人」なのか、ということによっても変わってくる気がする。
前者であれば、著作者性以外にも争える論点がいくらでもあるのだが、後者の場合、まさに「自動生成創作物の権利を誰が持つのか?(誰も持たないのか?)」ということが争点になるので、場合によってはAIを使った作品を世に出した人自身が、主張の中でその作品の著作物性を一生懸命否定する、ということも考えられるような気がして、争いの構図によって、シンプルな理論を超えたところで何らかの判断が示される可能性はあるのではないか、と思うところである。
なお、今回の論究ジュリストも、全体で200頁を超えるボリュームになっているのだが、他の記事の中では、特集2「震災・原発事故と不法行為法」の中の論稿、特に、米村滋人「津波災害に関する過失判断-災害損害賠償責任論・序説」(論ジュリ30号92頁(2019年))と、瀬川信久「震災関連訴訟が不法行為責任論に提起する諸問題」(論ジュリ30号129頁(2019年))が、一連の裁判例の傾向を把握する上で非常に有益な論稿だったので、本日のテーマからは離れるが、ここでご紹介させていただくこととしたい*9。
*1:論究ジュリスト30号138頁(2019年)。
*2:以下の番号は、自分が内容を見つつ独自に付けたもので、記事中の項番等とは必ずしも対応していない。
*3:「AIへの対応ということでは、世界最先端と言えるような状況になっているかと思います。」というのが奥邨教授のコメント(139頁)。新30条の4の評価は今のところ概して高い。
*4:奥邨教授は、冒頭で「AI技術の現状は、まだまだそこまでには至っていませんので、あくまでも想定事例ということでしかありませんが・・・。」と断っておられるのだが(140頁)。
*5:個人的には、自分もつい最近まで「AI」の「お守り」をしていたことがあったから、スタンスとしては圧倒的に「法律時報」特集の世界観に近いのだけど(自律的な創作を始める以前にあれもこれも・・・という技術的課題が多すぎるので)、自分が生きている間に遭遇できるかどうかわからないようなシンギュラリティに備えて「頭の体操」をするのも、決して嫌いではない、という感じである。
*6:完全に人間の「手」だけで創作されている著作物というのは、現時点でも既に少数なのだから・・・(今は、図面を引くにもデザインをするにも、作曲をする時ですら、一定の表現パターンを自動生成するソフトウェアが活躍している時代である)。
*7:奥邨教授も「AIによる著作権侵害」を議論する際の文脈で「どれを世に出すのか、最後は人間が決めるわけですから、その決めた人が、他人の著作物と似ていると知りながら世に出した以上は、その人に責任を負わせるという考え方」があることを紹介されている(145頁)。
*8:権利主張の対象となるのが「AIが生み出すありふれた創作物」なのであれば、依拠性なり、「ありふれた表現」のロジックなりで切れるので問題ない、という理屈。なお、先述したように、「動機付け」を行ったものに権利を帰属させる、というルールが定着すれば、そもそも”僭称”にもなりえない。
*9:この関係の仕事を長くやっていたこともあり、津波に関しては日和幼稚園、七十七銀行から大川小の事件まで、原発に関しても下級審判決が出るたびに集めてスクラップしていたのだが、なかなか整理する時間が取れず、満足のいくようなアウトプットも残せていなかった。論稿を読み進めていくうちに、そんなほろ苦い思いが蘇った。