大学入試改革、迷走の末に。

先日の「英語民間試験」問題に続き、「記述式」も消えた。

「2020年度に始まる大学入学共通テストで導入予定だった国語と数学の記述式問題について、萩生田光一文部科学相は17日、同年度の実施を見送ると表明した。50万人規模が受験する試験で、記述式の採点を巡る問題は当初から懸念されてきた。もう一つの目玉だった英語民間試験の活用も既に頓挫しており、巨大テストの役割が改めて問われている。」(日本経済新聞2019年12月18日付朝刊・第2面)

ここ数か月の議論の過程をつぶさに見てきたわけではないが、「採点」云々という話でいえば、他の数万人規模の資格試験でも、あるいは大学の二次試験でも”質”とか”ブレ”の問題はあるわけで、そこまで問題にする話かい? と思ったところはある*1

「一次選抜に使われる試験だからすぐに結果が分からないようでは困る・・・」というニーズも多少はあるのだろうが、一瞬で自己採点ができるマークシート方式でも、足切りのボーダーライン周辺の点数だと、次の選択に悩むことに変わりはないわけで、そこまで決定的な消極要因になるわけではない。

だが、それでも逆風がやまなかったのは、新しいスタイルを正当化するような説得力のある理屈がないまま、長年定着してきた「センター試験」の形を変えることへの戸惑い*2に加え、今の長期政権の下で最近やたら目に付く「特定業界が受ける恩恵」へのシニカルな感情が、政治的な事情に絡んで、多くの人々のフラストレーションが沸点に達したからだろうと自分は思っている。

で、このニュースが報じられた日の日経紙で、特に際立っていたのが横山晋一郎編集委員の以下の署名記事である。

「明治以来の大改革」と大風呂敷を広げ、共通試験の複数回実施や一点刻み入試からの脱却、合科目型出題など様々な論点を掲げた顛末(てんまつ)は事実上の現状維持。受験生を翻弄しただけだった。
迷走の原因は何か。思いつきのアイデアをぶち上げた政治・首相官邸。無理筋と知りながら従った文部科学官僚。ビジネスチャンスとばかりに飛びついた教育産業。現場の負担を口実に現状維持に走った高校……。だが、最も責任を負うべきは、当事者意識もなく国に追随した大学だろう。
入試とは自分たちが教えたい学生を、自分たちの責任で選抜する取り組みだ。最重要事項のはずなのに、大学、特に国立大学は受け身に徹した。
目的も実施方法も異なる複数の民間英語試験を入試で本当に使えるのか。50万人規模の試験で記述式問題の採点を、公平・公正かつ迅速にできるのか。大学が多様化する中で大規模の共通試験に意味はあるのか……。論点は山積したが、個々の大学も国立大学協会も「国の方針が固まっていない」と正面からのオープンな議論を避け続けた。
日本経済新聞2019年12月18日付朝刊・第42面)

実に厳しいコメント。

所詮は「一次選抜」に過ぎない試験で、使えないと思えば二次試験に比重を置けばよいだけなのだから、国立大学にそこまでの当事者意識を求める必要があるのか?という意見も当然あり得るところだろう。

ただ、「唇寒し・・・」で、なかなか官邸主導の施策にモノ申しにくい今の時代には、これくらいの喝があっても良いのかもしれないな、とも思うところ。

中長期的な視点で言えば、これからますます「黙っていても優れた人材をふるいにかけられる」という時代ではなくなっていく以上、大学が「学生の質」で競争しようと思ったら、小手先の入試改革では到底対応できず、大学の方から積極的に中高年代の生徒にアプローチして早めにフラグを立てて引っ張ってくる、という時代が遅かれ早かれ来るとは思うので*3、”その他大勢”のための入学試験は、むしろ「偉大なるマンネリ」で良いような気もするのだが、今は、この頓挫劇から、誰がどういう方向に議論を走らせていくのか、ということに注目しながら、これからの動きを見守っていくことにしたい。

*1:その意味で、この種の選抜試験を突破するためには「運」も不可欠の要素というほかない。

*2:受けたことのある人間ならわかると思うが、あの試験は単純な暗記だけで高得点がとれるような試験ではなく、最低限の思考力、判断力の有り無しは十分に判断できる試験だと自分は思っている。

*3:学生スポーツの世界で行われているようなことが、いずれそれ以外の世界でも起きるようになる、ということである。

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