野村監督が教えてくれたこと。

愛妻に先立たれて以来、メディアに登場するたび、遺言めいたコメントが出てくることも多くなっていたので気になってはいたのだが、いざ報じられると、やはり突然で、衝撃が大きいニュースだった。

プロ野球で戦後初の三冠王を獲得するなど歴代2位の657本塁打を放ち、監督としてもヤクルトを3度の日本一に導いた野村克也(のむら・かつや)さんが11日午前3時30分、虚血性心不全のため死去した。84歳だった。」(日本経済新聞2020年2月12日付朝刊・第1面)

自分は、選手として活躍していた頃の野村克也氏の姿に接することができた世代の人間ではないから、この方の偉大さに気付いたのは、テレビ解説者として活躍されていた頃の「野村スコープ」と、それに基づく解説の的確さから、だったし、存在感が脳裏に深く刻み込まれたのは、あの”万年最下位球団”を数年のうちに常勝チームに作り替えた「敵将」時代の数々の悔しい思い出を通じてで、いわば、人生の後半戦にしか接していない。

でも、それだけでもインパクトとしては十分すぎたし、記録を辿れば「通算3017試合出場、2901安打、657本塁打、1988打点」という、超一流と呼ばれる選手でもそう簡単にたどり着くことはできない錚々たる実績の持ち主。

自らを”月見草”と称し、卑下するようなグチやぼやきがトレードマークになっていたとはいえ、選手としては「三冠王」、MVP(5度)をはじめとして、数えきれないくらいのタイトルを取っているし、日本シリーズ制覇も成し遂げている。加えて、指導者としては大成しなかった名選手も多い中で、南海ではプレイングマネージャーとして8年、ヤクルトでも9年にわたる長期政権を率い、リーグ優勝5回、日本一3回、という実績を残した。通算1565勝は歴代5位の大記録でもある。

だから、自分がまだ学生の頃は、「何が月見草だ。十分華やかな人生じゃねーか、格好つけやがってこの野郎」くらいに思っていたものだった*1

その心境が変わったきっかけの一つが、1998年のオフに「突如として野村監督のユニフォームが縦縞に変わる」という奇跡が起きたことにあるのはもちろんなのだが、それ以上に大きなきっかけとなったのは、そのちょっと前に、大阪球場跡地(球場としての役目を終えた後もWINSとしては使われていた)を訪れ、南海ホークスの記念展示を眺めた際に、野村克也」の存在がそこから綺麗に消えていることを知った時の衝撃だったような気がする。

選手・監督として23年もの時を過ごし、自分の成績だけでなく、チームの栄光の歴史をも主力として担ってきたレジェンドが一方ならぬ愛着があったはずのチームを追われ、”一兵卒”として他のチームを渡り歩いた末にひっそりと引退しなければならなかった、という歴史は、一応知っていたのではあるが、いざ、それをビジュアルとして見せつけられてしまうと、その理不尽さに何とも言えない気持ちになったし*2、今(当時はまだスワローズの監督)どれだけ名監督と讃えられても、どこかしら満たされないものがあるんじゃなかろうか、と慮ったりもしたものだった*3

その後、タイガースでの「3年連続最下位」の悲劇は改めて語るまでもない*4

誰が監督をやっても勝てる気がしないような状態でチームを引き継いで、何とかやりくりしながらようやく光明が見えるところまで来たのに、2001年オフの夫人の脱税事件で辞任を余儀なくされた。

4シーズンのブランクを挟んで就任した楽天でも、沈没寸前のチームを最下位から2位まで押し上げたところで退任、という消化不良。

いずれも”美味しいところ”を持っていったのが、後を継いだ星野仙一氏、というのは決して偶然ではなく、星野監督のモチベーターとしての資質や、球団のオーナーから編成部門まで自在に動かす政治力があってこそ頂点まで行けた、という評価は間違っていないと思うのだが*5、それも野村監督時代の土台があってこそだから、余計に惜しさが増す。

もし、往年の南海ホークス球団に今のソフトバンク並み、とまでは言わないまでも阪神球団並みの資金力があったなら、得意ではなくても「生え抜き」としての立ち回りで、巨人のV9を阻止できるくらいの戦力を整えることはできたかもしれないし、逆に、タイガース時代に「外様」ではない立場で指揮を取れていたら、3年でチームをAクラスまで引き上げることも夢ではなかったかもしれない。

そういう意味で、我が身に引き付けて考えても、つくづくめぐり合わせの良くない方だったのかなぁ、と思わずにはいられないのだけれど・・・。


それでも、70歳を過ぎるまで指揮官として現場に立ち続け、「知/智」と「策」で勝負に勝つ方法を必死に練っていたであろう姿は、自分の目にも十分焼き付いている。

そして、直に教えを受けた多くの選手たちが、今でも現役で、あるいは指導者として、球界で野村イズムを継承しているのも間違いないわけで*6、それは華々しい結果を残すこと以上に大切なことだったりもする。

自分は、まだまだ、野村克也氏の現役引退の年にも達していない若輩に過ぎないのだけれど、だからこそ、残りの人生で何を残せるか、ということを考えた時に、世界は違えど、真似たいところ、足跡をたどりたいところはたくさんあるわけで、心からのご冥福をお祈りしつつ、様々なところにちりばめられた「言葉」を改めて反芻しているのである。

*1:「敵将」をリスペクトするような寛容な心は、当時はとても持ち合わせてはいなかったのである。もちろん、長嶋茂雄の方がその数倍嫌いだったが。

*2:展示では鶴岡一人監督の偉大さや、杉浦、広瀬といった同じ時代を支えた他の選手たちが華々しく取り上げられていたからなおさらである。

*3:実際のところは、球団側が「消した」のではなく、故・沙知代夫人が掲載を拒否したからだ、というふうにWikipedia等には書かれているが、こと沙知代夫人絡みのエピソードに関しては南海監督解任のくだりも含めて眉唾な話が多く(”野村派”とされる江夏豊氏も「私の履歴書」の中で、「現場介入」の存在を明確に否定していた)、様々な政治的な思惑の中で野村夫妻が必要以上に悪役に仕立て上げられていたような気がするので、自分はその類の話は全くといって良いほど信じていない。

*4:懐かしいエントリーとしてはこちら。k-houmu-sensi2005.hatenablog.com

*5:逆に言えば、あれだけの実績と頭脳を持っていながら、その二点だけは致命的に弱かったのが野村克也という人物の特徴だったともいえる。

*6:今、球界一の知将だと自分が勝手に思っている栗山監督がヤクルト時代に”干された”側の選手だったというのは若干皮肉めいているところもあるが、既に着実に実績を残し始めている矢野監督はもちろん(【矢野燿大物語32】野村克也との出会いが運命を切り開いた― スポニチ Sponichi Annex 野球参照)、ヤクルト(高津)でも楽天(三木)でも、かつての教え子たちが指導者としての実績を評価されて今現場で指揮を執っている、というところはさすがだと思う。

google-site-verification: google1520a0cd8d7ac6e8.html