こんな時だから、振り返っておきたいこと。

3連休が明けてから本当にいろいろな動きがあって、世の中のムードもすっかり変わりつつある。
そして、「このままで大丈夫なのかなぁ・・・?」という漠然とした思いに駆られながら↓のようなエントリーを上げたのが、まだ先週のことだ、というのが信じられないような状況でもある。

k-houmu-sensi2005.hatenablog.com

当時と共通するバタつき感、当時に増して拍車がかかった政府サイドの動きの見えにくさ、そしてそれに起因するSNS上での外野からの言いたい放題、と、うわべだけ見ていると、「この9年の間に何も変わっていないのか・・・!?」と落胆したくもなる。

だが、少なくとも1か月前、2か月前のことを取り上げてあれこれ言うのは、今やるべきことではないな、と思わせてくれる一本の記事が法律雑誌に載った。

ジュリスト 2020年 03 月号 [雑誌]

ジュリスト 2020年 03 月号 [雑誌]

  • 発売日: 2020/02/25
  • メディア: 雑誌

今号の特集は、「2019年会社法改正」でこれはこれで大事な話だから、そちらを取り上げるべきなのかもしれないが*1、今日ご紹介するのはそれではない。

板垣勝彦・横浜国立大学准教授が、東日本大震災の数多ある悲劇の一つとなってしまった大川小学校津波被災事件の第一審、控訴審判決*2を素材として書かれた論文の最後に書かれた一節に、今まさに、と思うところがあったからこそ、このエントリーを書いている。

以下、かなり長い引用となってしまう非礼は承知の上で、ご紹介させていただきたい。

いつの頃からか、『これは天災ではなく、人災である』と述べれば、誰もが一端の論客を気取ることのできる風潮が生まれた。科学の進歩は、未曽有の自然災害や感染症など、かつては諦めるほかなかったリスクの脅威について、そのメカニズムの核心に、一定程度まで迫ることを可能とした。ただ、そのことで私たちの幸福度が増したのかといえば、些かの疑問は拭えない。全てを天の差配に委ねて『諦めて』いた時代と、人智を尽くせば防げるはずであったからといって担当者の責任追及に走る時代の、いずれの時代が生きやすいのか、神ならぬ身に明確な回答は見出せない。」
「不確実性が増すリスク社会において、最も悩ましいのは、行政・民間を問わず、一定の時点においていかなる判断をしておけば良かったのか、という、明確な基準が存在しないことである。したがって、次善の策として、その時点における知見を結集した行為規範を作成し、担当者の拠るべき基準とする以外にない(略)。そして、リスクの具現化により被害が現実化した場合には、犯人捜しよりも、同じような被害を繰り返さないことを第一に考える必要がある。本件は行為規範の内容が問われた事案であったわけだが、今後、明確かつ具体的な行為規範を確立し、問題の先送りを根本から防ぐという、将来志向の建設的な論議を進めるためには、不確実なリスク状況の下では、担当者が十分な情報および信頼できる行為規範に基づいて果敢に決断した場合ならば、それが万が一失敗した場合にも、結果論に基づく事後的な視点で批判することを慎むという国民的意識の形成が何よりも望まれる。」
(板垣勝彦「リスク社会と行為規範の設定-大川小学校の惨劇が遺したもの」ジュリスト1542号101頁(2020年)(強調筆者)

度々訪れた石巻(日和地区)や東松島とは異なり、自分がこの悲劇の舞台となった場所に足を運んだのは、たった一度しかないが、そのたった一度の機会だけでも、この問題を論じる難しさを理解するには十分すぎた。

学校があった場所から海との間の距離は遠く、近くに北上川はあれど決して「低地」ではないその場所に、津波が押し寄せることをどれだけの人が想像できるだろうか?という思いは当然湧いてくる。そんな場所だっただけに、後に裁判所が一審、控訴審ともに学校側の義務違反を認め、原告の賠償請求を一部認容した、という事実もまた、自分にとっては大きな衝撃だった。

前記論文では、裁判所がそれぞれの審級で用いた「避難誘導義務違反」、「学校組織上の注意義務違反」という理論構成を詳細に分析するとともに、特に後者における「予見可能性」に関する認定に無理がある、ということを手厳しく批判している。

そして、その流れを締めるのが、既に紹介したまとめの一節であり、後講釈で安易に「予見義務」を要求すべきではない、という本題部分の論旨と合わせ、大いにに腑落ちさせられた。


翻って、今、この日本で起きていることを眺めれば、まさに、現在進行中の出来事に対し、様々な”後講釈”が呟かれている状況のように思える。

「3・11」とは異なり、今回の脅威はじわじわと持続的に広がっていく性質のものだから、「過ぎたこと」への評価を受けながら、「今起きていること」に対処しなければならない、という、大震災とはまた異質の難しさがある。

自分とて、今起きている問題の発端から今日にいたるまでの間に、対応の責任を負うべき機関やその指導者が行ってきたことがベストだったとは全く思っていないし、まさに今、27日付で突如発せられた「来週月曜日からの休校要請」にしたって、他のやり方はなかったのか、と思うところは当然ある。

ただ、相当の時間が経っているとはいえ、今回の伝染病には未だに「未知」の側面が多く残っている以上、そこに100%正解、といえるような行為規範、政策の判断基準などあるはずがない。そして、今行われていることは、試行錯誤、あるいは迷走のように見えても、「これ以上犠牲者を増やさない」という目的のために行われているのは間違いないわけで、世界中を見回しても”ウイルスを抑え込む”メドが立っているところはないという現状において、過去の政策判断にまで遡ってあれこれ批判したところで、それだけでは何ら建設的な解決は導けないように思う。

いつか「最終的な形」が出来上がり、今はまだ見ることができていない様々な隠れた情報まで表に出てくるようになれば、その時には当然、検証のために激しい目を向ける必要があることは言うまでもないし、仮に「結果」が最悪レベルのものとなってしまった場合には、今の指導者たちが(法的責任はともかく)政治的責任を免れることはかなり難しいだろう。

しかし、この状況下において、やるべきことがそれか?といえば、それは大いに違うような気がして・・・。


自分とて、政府がやることに何が何でも従え、などというつもりは毛頭ないし、世の中に大きなインパクトを与えるような判断・要請であればあるほど、その都度の批判は当然ありうべしだと思うのだが、できることなら、その批判もまた今まさにここにある脅威から抜け出す知恵や術を提示するものであってほしい。

そして、たとえ今、社会の大きな器を動かし得る立場にいないとしても、身の回りで、大なり小なり、何らかの「判断」をする機会は必ずあるはずだし、それが政府の示したベクトルと同じ方を向いていようが、逆だろうが、その時その時の状況で、各人が「果敢に決断」することこそが今求められていることだと思うから、何よりもそこに注力すべき、と言わずにはいられないのである。

*1:個人的には、冒頭の記事を書かれた神田秀樹教授が、国会で修正されたくだりについて全く言及されていない、というのがちょっと気になったりもした。

*2:仙台地判平成28年10月26日、仙台高判平成30年4月26日。

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