こんな時でも、決して忘れることはできない日。

あの日から9年、再びめぐってきた「3・11」。
今の世の中は”コロナ一色”だけど、それでもあの悲壮な時間と空間を共有したものとして、決して忘れることのできない日である。

昨年までは、決まった時間になると一斉に黙祷を始める、そんな環境にいた。

今は案内放送が流れることもなければ、周りに手を合わせる者もいない。
だけどその方が、「最初の一撃」が来た14時46分から、悲劇の幕開けとなった15時24分頃までの間、あの時、何もできなかった自分を振り返って思いに耽るにはちょうど都合が良かったな、という気がする。

”被災地”とラベリングされた地に最初に足を踏み入れたのは、あの日から1か月も経たない頃。それから何度となく仕事でもプライベートでも足を運んだ。

あるところでは、あったはずのものが全て消え去り、あるところでは景色は変わらなくても人影が消えた。そんな絶望的な光景の前では、誰かを「助ける」ことができるなんて気持ちには到底なれなかったし、「寄り添う」ことができる自信も全くなかった。

そして、様々な場面で接するたびに、切迫した”被災者”の叫びに気押され、ただただ無力感を抱く結果になることも多かった。

でも、その一方で、数か月経ち、半年経ち、1年、2年と歳月を重ねるたびに戻っていくものもあったし、新たに生まれた賑わいもあった。
びっくりするくらい豪華な海鮮丼に舌鼓を打ったこともあれば、街の片隅にある古いカフェで心を落ち着かせたり、あるいは、振る舞っていただいた銘酒を堪能したり・・・。

あの一日で変わってしまった景色が動き出すまでには、それなりに長い時間がかかったけど、そこにいる人々は、いつまでも”被災地”という感覚で目を向けるよそ者の想像を超えるところで、日常の中の賑わいを取り戻し、あるいは新しいポジティブな何かを生み出しているようにすら思えたから、自分自身の仕事の中身がローカルからグローバルに移っていった後も、必ず年に数回はどこかに足を運んで動いていく姿を見届ける、というルーティンは守り続けていたし、それが自分を突き動かす原動力の一つになっていたのも間違いない。

残念ながら、「ポスト3・11」で自分に課した様々なミッションを最後に片づけてから3年も経たないうちに、様々なものが大きく変わってしまった。

今では遠い昔のことのように思える一年前のエントリーは、今読めば、「最後」の瞬間の一歩手前の心境を見事なまでに象徴している。

k-houmu-sensi2005.hatenablog.com

ただ、それでも、もうほとんどの場所では、どこに足を運んでも”当時の面影”を探す方が難しいような状況になっている今になっても、あの頃、自分の足で駆けずり回って、何ができるかを必死で考えた経験が、今の自分の一つの幹になっていると思っているし、復興の過程でいろいろと考えさせられたテーマの一つに、ちょっとお高いところから(場違いなれど)かかわれている、というのも、まさに「縁」。

9年という歳月、当時の中学生が大学を出て立派に社会人として働いている、そんな時の流れを噛みしめつつも、自分を駆り立てた「原点」は忘れずにいたいと思っている。

そして、”現場法務”の大切さを教えてくれたかの地の方々への感謝の念と、そこに眠る方々への慰霊の思いだけは、いつまでも持ち続けていなければと思うのである。


なお、残念なことに、昨年の春以降、かの地から自分の足はすっかり遠のいてしまったのだけれど、今朝の「復興」を伝える様々な記事を眺めながら、どうしても行きたくなったところがある。

残念ながら、昨今の情勢ゆえ、今年の春は、賑わいを再びという試みの多くが実現せずに終わってしまいそうだけど、そんな時だからこそ足を運びたい場所である。

祭りはなくとも、花は咲くのだから・・・。

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