コロナが去った後に残るのは自由か、それとも・・・?

そういえば昨日は憲法記念日だったな、ということに今日になってから気付き、昨年暮れに衝動買いしていたことを思い出して読んだのが、以下の一冊だった。

日本憲法学の泰斗、樋口陽一東大名誉教授が書かれたこの一冊は、一般読者向けの新書らしく分かりやすい語り口で書かれているものの、いざ読んでみると、そう簡単に読み解ける代物ではない。

元々テーマの異なる複数の講演の内容を口述調で編集したものだから、一見すると章ごとに大きく話の中身が変わっているように思えるし、テクニカルな用語が定義の説明なく次々と飛び出してくるくだりもある。

元々岩波の新書は、新書といってもある程度の素養・教養のある人向け、ということは承知の上なのだが、それにしても骨っぽいな、というのが一読した印象であり、流し読みしただけでわかったようなことを書くこともできないな、というのが率直な感想である。

ただ、今、世界中で起きていることとの比較で見た時に、「寛容さを欠く」民主主義=「イリベラル・デモクラシー」が伝播していく状況を以下のように喩えているくだりは、感覚的にとてもタイムリーだな、と思った。

「イリベラル・デモクラシーが、いわば『未熟な周辺』どころかまさにリベラル・デモクラシーの本拠地だった所にまで及び、そのウィルスがどこまで広がるか憂慮されるような事態になってきたのです。それは現在よく報道されるポーランドハンガリーから、北欧さらにはECの原初加盟国まで及び、加えてリベラル・デモクラシーの生みの親だったはずのイギリスのEU離脱Brexit)をめぐる混迷も無関係ではなさそうですし、言うまでもなく大西洋を越えてトランプ現象があります。」
イリベラルという『ウィルス』汚染は、そのように『南』から『北』へ、『東』から『西』へと、リベラル・デモクラシーの本丸に向けて拡がってきています。」(以上、強調筆者)
樋口陽一『リベラル・デモクラシーの現在』40頁(2019年)より

本書でも紹介されているように、ここで使われている「ウイルス」は、「イリベラル・デモクラシー」という概念を流通させるきっかけとなったForeign Affairsの論文(Fareed Zakaria, "The Rise of Illiberal Democracy" )から引っ張ってこられた「比喩」に過ぎず*1、また、ここで評されているのは、あくまで本書が刊行された2019年時点の各国の状況(つまりは「コロナ以前」の状況)でしかない。

だが、今や名実ともに本物の「ウイルス」が蔓延している状況の下、米国にしてもフランスにしても、紛れもなく民主主義の基盤の上に乗っかっている国家指導者たちが、相当強力に権力を発動して私権を制限し、しかもそれが一定の範囲では喝采を浴びている、という現象が起きていることは、あえて説明するまでもないだろう*2

本書では、西欧のリベラル・デモクラシーの生成過程に照らした「イリベラル・デモクラシー」の位置づけ(特に「デモクラシー」(民主政体)が拠って立つ基礎のそもそもの揺らぎ)を描いた上で、わが国のあり様に目を移し、大日本帝国憲法下においてすら重視されてきた「個人」が2012年の自民党改憲草案では消されている等々の批判へとつながっていくのであるが、それは今日のエントリーのテーマではないし、本書のエッセンスを拝借して、「この日本でも、コロナだけじゃなく『イリベラル・デモクラシー』のウイルスまでが蔓延している」等々の批判を展開するつもりもない。

むしろ、一連のコロナ禍への対応におけるここまでの日本政府のやり方を客観的に眺めれば、他の先進国との比較でも、「既存の憲法秩序の枠内で、個人の権利を極力制限しない方向で」というソフトさが際立っていたと言えるし、今のところ「これを機に憲法改正を!」という動きも国会議員の間ではさほど盛り上がっていない*3、という点でも「リベラル・デモクラシー」の優等生というべきポジションを確保しているように思える。

こと「感染症対策」という見地からそういった姿勢が有効に機能しているかどうか、と言えば当然疑義もあるだろうし、元々現政権が備えている「政策の軸があるようで存在せず、世論におもねって政権を維持することが自己目的化している」という本来は決して好ましいとはいえない”個性”がいかんなく発揮されていることをもって、称賛するのもあまりよろしいことではないのかもしれないが、結果的に、移動にしても、人が集まることにしても、経済活動でさえも*4一部の感情的な意見に流されずに「自粛」レベルのお願いに留めることで一定の自由な領域が残されている、ということに対しては適切な評価をしてあげないと、中であちらこちらの板挟みにあって汗をかいている人々が気の毒だ。

もちろん、一部の自治体首長のパフォーマンスじみた言動が気になることはあるし、それ以上に、当の国民自体が、右からも左からも「政府のリーダーシップ」に過度の負荷をかけようとしているように見えてしまうのはかなり気になる風潮ではあるのだけど、実際の現場では、それと平行して「自助」「共助」の動きも出ていたりするから、最後は上からのハードな私権制限や私的領域への介入なしに、いろんなものが適切なバランスの中に収まっていくことだろう、と自分は信じている。


最後に、やたら「不自由」が強調されることが多い一連のコロナ禍だが、自分はどちらかと言えばポジティブに捉えるべき要素も多いと思っていて、特にホワイトカラー、知的労働者にとっては、この1,2カ月の間に定着しつつある、「オフィスという場所的な縛りからの解放」「煩わしい会議や打合せによる時間的拘束からの解放」というのは、本当に大きな価値のあることだと思っている。

上から「生活様式」を押し付けて一方的に縛ることは、別の意味で(というか本来的な意味での)自由への制約に他ならないから避けるにこしたことはないのだが、一方で、世の中が「一つの選択肢」として、私的な拘束から解放され、行動の自由の幅が広がる選択肢を自主的に許容してくれるようになれば、そんなに素晴らしいことはない、と思うだけに、今は「全てを元通りに」という多数意思(のように見えてしまう何か)が、”解放された”者たちへの不寛容と新たな社会の分断を招かないことを願うばかりである。

そして、ともすればブレがちな世の中の多数意思を前に、個々人に「自由」を享受できる選択肢を与える、ということこそが、民の信託を受けた人々の仕事なのだ、ということも、改めて強調されるべきではないのかな、と思うのである。

まだまだこの国の未来と、可能性を信じる者として・・・。

*1:ちなみに、この論文はWeb上でも読むことができる。https://msuweb.montclair.edu/~lebelp/FZakariaIlliberalDemocracy1997.pdf 自分は到底読む気力はないが、”in the face of a spreading virus of illiberalism" というフレーズだけは確かに確認した。

*2:ちなみに日経紙は今日の社説で、「世界を覆うナショナリズム大衆迎合主義がコロナ禍で加速し、強権的で排斥的な政治への傾斜を強める指導者が目立つ」とし、「統制の行き過ぎや常態化まで容認することはできない。」といつになく格調高い論陣を張っているが(日本経済新聞2020年5月4日付朝刊第2面)、その見出しが「民主主義の理念や基盤を守りたい」となっている点において、「『リベラル』と『デモクラシー』はあくまでも別次元の話」とする本書のスタンスからはズレている、ということになりそうである。

*3:むしろ、これで現総理の任期中の憲法改正は絶望的、というのが一般的な見方であり、それは今回のコロナ禍で生じた数少ないプラス材料の一つだと言えるのかもしれない。

*4:この点に関しては、「一部の事業者が事実上営業できない状態になっているじゃないか」という突っ込みもあるだろうけど、飲食業一つとっても、営業形態を変えれば問題なく営業を継続できるわけだし、中にはそれまでと変わらず営業を継続している店舗だってあるわけだから、これで「自由がない」などと言ってしまったら、諸外国からは笑われてしまうのがオチである。

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