「空白」を生かす知恵。

ここ数年、油断していると世の中で起きていることと無関係に時が流れて行ってしまうような生活を続けていたこともあり、年初めに、新聞等に載ったざっくりとした「今年の出来事」を手帳のスケジュール欄に書き込む、というルーティンを繰り返していた。

で、この週末になって、来週の予定をざっくり見返して、改めて思い出したこと。

「そうだ、来週はオリンピックが始まるはずの一週間だったのだ・・・」

人間というのは残酷なもので、つい数か月前までは、全てが「五輪」という一大イベントに向けて動いていて、それがない夏の東京なんて誰でも想像していなかったはずなのに、今は、「新型コロナの話題がなかったら・・・」などということはおおよそ想像もできないくらい世の中のニュースは”withコロナ”一色になってしまっている。

だから自分も平日仕事に追われている時はオリンピックの「オ」の字も記憶の中からは消えているのだけど、手帳に微かに残った残滓と、カレンダーに刻まれたイレギュラーな祝日の赤い数字を眺めるたびに思い出す、ということの繰り返しで、「ああそういえば・・・」と思うたびに何となく喪失感に襲われそうになる*1

元々五輪をシニカルに眺めていた自分ですらそうなのだから、この時期に五輪特集を組もうと前々から準備していた各メディアの「喪失感」は、おそらく比較にならないくらい大きいだろう。特にテレビ局などは、たかだか3か月ちょっとの間に全てを調整し切るのは難しいはずで、このクールの番組編成が大きく狂ってくることは避けられないだろうし、スポーツ専門雑誌なども年間を通じて特集の企画を組んでいたとなれば、何らかの「穴」が開くことは覚悟しないといけない。

そして、Numberの最新号の表紙で、「五輪アスリートではあるが、五輪が予定どおりに行われていたら絶対にこの時期に表紙を飾ることはなかった20歳の競泳選手」が美しく微笑んでいるのを見た時に、最初に自分の頭に浮かんだのもそんな”大人の事情”だった。

Number(ナンバー)1007号[雑誌]

Number(ナンバー)1007号[雑誌]

  • 発売日: 2020/07/16
  • メディア: Kindle

メインは矢内由美子氏による池江璃花子選手の独占インタビュー。萩原智子氏の解説と合わせると、実に10ページが池江選手のために割かれている。

前回の五輪以降急成長を遂げ、2018年にはパンパシ、アジア大会で驚異的な活躍を見せた「五輪の星」の扱いは、白血病であることが報じられた瞬間に「悲劇のヒロイン」のそれへと変わってしまったし、その後も入院、一時退院、さらに退院、と動静は伝えられていたものの、春に予定どおり競泳の五輪予選が行われて彼女抜きの「日本代表」が決まり、予定どおり五輪に向けた準備が進んでいれば、今頃は池江選手の名前がメディア上に出てくることもなかったはずだ*2

だが、状況の変化が、今、このタイミングで彼女を主役に押し上げ、そして「穴埋め」とは到底言わせないような心に響くコンテンツを生み出した。


おそらくこんな時だからこそ、という背景もあって、独占インタビューの記事は極めてポジティブなトーンで書かれている。

入院前の自分の泳ぎの映像を「完全に過去の栄光だったという気分で見ています」と言い切り、退院後の世の中の激動も、

「病院にいた時から日常を奪われていたのに、日常生活に戻ってからも、またその日常生活が奪われてしまって。ですから今は、こうして友達と会えて、プールで練習をできて、また強くなっていける自分がいるという状況を、すごく大切にしていますね」

と非常に前向きに語られる。

東京開催が決まった頃から将来を嘱望され、本番での5冠、6冠も夢ではない、というところにまであと一歩で手が届きそうなところまで来ていた選手が、こういう形で一頓挫を味わうことになった時にどういう思いに駆られたのか、凡人にはとてもじゃないが想像できるものではないし、もし、彼女が本当にこのテンションで取材に答えていたのだとしても、そこに至るまでの間には書き記せないほどの葛藤があったはずだ。

それでもなお前に進もうとする強さ、健気さは、こんな時だからこそ尊い

記事の中で描かれているのは、あくまで一日一日を積み重ねていくアスリートとしての日常だけで、一年延びた五輪の存在など無きが如く。

でも、こうして、新型コロナが様々な時間を止め、つかの間の「空白」を生み出したことが、より長い空白を乗り越えて水上に戻って来たアスリートに追いつくための時間を与えたのだとしたら、それもまた天の悪戯がもたらした「粋」ではないか、と思ったりもする*3

この特集では、さらに、リーグ戦中止が決まった中でもトレーニングを続ける稲垣啓太選手や、五輪代表に内定していた伊藤美誠大野将平といった選手たちへのインタビュー、そして「2年後」もしっかり見据えている小平奈緒選手へのインタビューと、現役アスリートのポジティブな思いを伝える記事が続く。

例年のスケジュール通りに動いているスポーツもイベントも、ごく限られたものしかない、という状況下での「作られた記事」ではあるが、こういう時、目の前の大きな試合と大会がない時期の取材だからこそ出てくる味も随所にあって、時にはこういう企画も悪くないな、と思った次第*4

なお、この号に関しては、最後に登場する宮藤官九郎氏の連載コラムの最終回もまた痛烈なものだった。

「新型コロナの有効なワクチンが開発され、安全が保証されない限り、やるべきでない。国の威信をかけたオリンピックなら中止で結構。今は経済の立て直しが最優先。ごもっともです。だけどスポーツが人々の心を躍らせ、豊かにするという根本は無視できないと思うんです。たとえ無観客でもファンはプロ野球の開幕を心から喜び、明日を生きる活力にしている。アスリートの真剣勝負が、世界人類の心を豊かにする。そんな原点に立ち返ったオリンピック&パラリンピックなら、決して無駄ではないと思うんだけどなぁ。」(強調筆者)

添えられたシュールなイラストと合わせて読むとなお趣深いこのフレーズ。

ついこの前まで「こんな騒ぎ、いつまでやってるんだ」といってたような人々が、あたかも世界が永遠にコロナウイルスに支配されるかのような言説に走り出しているどうしようもない世情ではあるが*5、いろんな地で、本気の勝負が人々にもたらすスポーツの力を体感してきた者としては、宮藤官九郎氏が絞り出したこの一言に、ただ賛成あるのみ、ということを申し上げておくことにしたい。

*1:何もなければ、おそらく来週初めくらいから半月くらいは、落ち着いて仕事ができる環境を求めて日本ではないどこかの国、に行っていても不思議ではなかったのだが、残念ながらそれも幻になってしまった。まぁ五輪がなければ日本を離れる理由もない、といえばそれまでなのだが・・・(苦笑)。

*2:いずれは”完全復活を目指す道程”が伝えられる機会もあっただろうが、それは五輪の熱狂が冷め、4年後に向けて目が向き始めた1,2年先くらいのことだったかもしれない。

*3:少なくとも今回の記事には「1年後」に彼女が間に合う、という感想を読者に抱かせるほどの甘さは全くないし、短期間のうちにそこまでの回復と成長を期待するのは極めて難しい、というのも事実なのだろうけど「4年後」となれば話は別。そして、谷底に落ちた日本がここから再び元の場所に戻る過程と重なる一つの象徴として、この先彼女が取り上げられる機会も増えるだろうな、というのが、一読した感想であった。

*4:そういえば、今ほどスポーツイベント三昧ではなかった時代は、年に数回はこういう企画もあったよな・・・ということも思い出したりしていた。

*5:この点に関しては、「永久に自粛せよ」的なトーンの人々だけでなく、「永久に共存せよ」的な言説を唱えている人々もまた同罪だと自分は思っている。

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