「10年」という歳月の重さとまだまだ続く道のり

今年もめぐってきた「3・11」。

昨今の状況を考えると、10年前の話より、1年前の「パンデミック宣言」の方を想起する人も多いのかもしれない。

だが、個人的な思いで言わせてもらうなら、この1年で世の中がどれだけ変わった、といったところで、10年前、揺れを観測してからの1時間くらいの間に起きた出来事のインパクトには遠く及ばないと思っている。

その頃自分がいた場所は直撃を受けたエリアからは遠く離れていたが、それでも全く「無傷」ではなかった。

そして、揺れの恐怖を味わい、テレビから流れてきた映像に戦慄を覚え、夜飛び込んできた一本のニュースに感じた不安が翌日には現実のものとなり、それからは、自分たちの日常に不安を感じながらも「被災地」に思いを馳せ、断片的に届けられる知らせに一喜一憂する・・・そんな日々が続いた。

余震への警戒、計画停電、そして放射能をめぐる流言飛語に「自粛」ムード。

今と違って夜遅い時間でも明かりを付けていた居酒屋はあったが、店内の客はまばら。だが、不規則勤務で疲れた体とすり減った心を少しでも癒そうと、家に帰れる日は痛飲したものだった。

あの日、11日の夜から、カレンダーの数字の色は消え、一日一日が重く、長かった。

それから3,600日以上経過した今振り返れば、それは一瞬の話で、東京圏では4月の終わりくらいからすっかり日常を取り戻しつつあったが、インフラがある程度復旧して、毎週、毎月のように足を運ぶようになった「現地」では、そこからも”まばらな明かりしかない”日々が、長く長く続いていた・・・。


2013年の暮れに自分が書いたエントリーがある。

k-houmu-sensi2005.hatenablog.com

その中で触れた東日本大震災における原子力発電所の事故により生じた原子力損害に係る早期かつ確実な賠償を実現するための措置及び当該原子力損害に係る賠償請求権の消滅時効等の特例に関する法律」

当時は自分も、まさにこの問題に正面から向き合っていたから、この法律ができた時には心底安堵したし、心の中で喝采も上げた。

その時、既に「3・11」からは少し日が経っていた、とはいえ、法律が延長してくれた「十年間」という年数が経過する日がめぐってくることなど、当時は想像もできなかったのは言うまでもないこと。

だが、気づけばその日が来ている。


1年前、後に”気の緩み”と指摘されることになる3月の3連休、自分は人の流れと逆行するように、「3・11」直後は足を踏み入れることすら叶わなかった地に向かった。

新しく開かれた土地、作られた建物、「復興」というフレーズが相応しい景色も確かにあった・・・が、それ以上に心に深く刻み込まれたのは、僅かブロック1つ、道一本の隔たりで時間が止まってしまった街の景色だったのは言うまでもない。

駅前にあるタバコの自販機に表示された「マイルドセブン」。隣の飲料自販機には「桃の天然水」。

新築の戸建住宅にスーパーマーケット、温浴施設から洋菓子店、そして場末感漂うスナックと昔懐かしい感じのゲームセンター。

古いものと新しいものが混在するありふれた田舎の光景だが、簡単に乗り越えられそうなフェンスの向こう側で、時の流れは完全に止まっていた。


この10年の間、主に三陸エリアで北から南まで、変わっていく街の姿を自分はたくさん見てきた。

瓦礫が片付くまでに1~2年、そこからも残った建物はしばらくそのままで、永遠に止まったままなんじゃないか、と思えたような場所でも、時の経過は確実に街の姿を変えていった。

だからいつかは・・・そう信じたい気持ちはあるのだけれど・・・。


「10年」は決してこれまでの歩みに終わりを告げるものでもなければ、「区切り」でもない。

今言えることはそれだけ、である。

google-site-verification: google1520a0cd8d7ac6e8.html