昨年、COVID-19の世界的流行が始まって以来くすぶっていた問題が、米国バイデン政権の衝撃的な政策転換によって、今まさに世界的論争へと発展している。
「バイデン米政権は5日、新型コロナウイルスワクチンの国際的な供給を増やすため、特許権の一時放棄を支持すると表明した。ワクチンが足りない途上国が世界貿易機関(WTO)で要請していた。製薬会社は反対しており、交渉の先行きは不透明だ。」
「米通商代表部(USTR)のタイ代表は声明で、WTO加盟国がワクチンの特許権を保護する規定を適用除外とする案を支持すると表明した。「コロナのパンデミック(世界的な大流行)という特別な状況では特別な政策が必要だ」と指摘した。」
(日本経済新聞2021年5月6日付夕刊・第1面、強調筆者、以下同じ。)
既に多くの識者が指摘しているように、原語の「waiver」を「放棄」と訳してしまうと、本来のニュアンスからはズレてしまうように思われるし*1、医薬品に関してTRIPS協定上の義務をwaiverする、という政策自体は、TRIPS協定ができて間もない20年近く昔から存在する考え方で*2、それ自体はそこまで斬新、というわけではない。
ただ、自分が知る限り、ここ数年、医薬品の保護に関してはTRIPS協定に「上乗せ」する発想はあっても*3、その逆を提唱するような提案はついぞしてこなかった米国がこれを言った、ということは大きいし、それにもかかわらず、予想された製薬会社はもちろんのこと、欧州連合からも反対の声が上がった、というところに状況の複雑さを感じざるを得ない。
今求められているのが、「未だに一部の国・地域で続いているCOVID-19(変異種)の拡大を食い止めるため、いかに迅速にワクチンを世界中に供給するか」という”スピード勝負”のミッションであることを考えると、「特許権云々の話をする前に、他にやるべきことがあるんじゃないか?」というのは自分もこのニュースを最初に聞いた時に思ったことで、強制実施権の下で後発薬メーカーにワクチンを作らせる、といった危うい戦略をとるくらいなら、既に開発に成功しているメーカーに積極的な輸出やライセンス供与を促す方が、格段に効果は上がるはず。
”waiver”ルールの適用を激しく主張している国々にしても、それを分かった上で、主要先進国の製薬メーカーに低廉な価格での販売、ライセンス供与を自主的に行わせるための交渉材料としてこれを持ち出しているのだろう*4。
とはいえ、これまで、先進国側と新興国側が、それぞれのポジショントークを声高に唱えるだけで、そこから現実的な施策に発展する気配がなかなか見えなかったTRIPS協定の枠組みの下での論争が、米国の政策転換によるバランスのシフトを契機に合理的な施策へと結びついていくのであれば、実に大きな話なわけで、ここしばらく「機能不全」を指摘されて久しかったWTOを舞台にこうした動きが出てくる、ということにも、政権交代を契機とした時代の大きなうねりを感じずにはいられない*5。
奇しくも、この話題が世界中で報じられるようになったタイミングで、米ファイザーと独ビオンテックがIOCにワクチンをdonateする、というニュースも飛び込んできて、「政治に長けた人たちのやることは違うな・・・」と変なところで感心してしまったのもまた事実ではあるが*6、そういった様々な政治的駆け引きを経て、どういったところでこの話が落ち着くのか・・・。
いずれにしても、今世紀の初めに先人たちが世界中の叡智を集めて作った多国間知財権行使の枠組みが、この人類追い込まれた状況の下で日の目をみようとしていることに敬意を表しつつ、この問題の行方を見守ることとしたい。
*1:経産省の資料などを見ると「一時免除」という訳語が使われており、waiverの前提としてTRIPS協定上の強制実施権発動に伴う諸々の義務があることを考えると、「義務免除」とか「適用除外」という日本語を使う方が正確なのだろうと思われる。
*2:WTO | intellectual property (TRIPS) - Implementation of paragraph 6 of the Doha Declaration on the TRIPS Agreement and public health参照。この2003年8月の理事会決定の内容は、その後のTRIPS協定のAmendmentにも取り込まれている。
*3:同じ民主党のオバマ政権下ですら、TPPでアジア新興国相手に米国が激しいバトルを繰り広げたのはまだ記憶に新しいところである。
*4:インドくらいの国になれば、自力でファイザーやモデルナと同レベルの製品を市場に供給することもできるのかもしれないが、それにしても自国だけでの取り組みでは自ずから限界がある。
*5:もちろん、あくまでこれは、これまでも機能してきたTRIPS Agreementの世界での話に過ぎず、WTOが本来果たすべき全ての機能を取り戻せた、ということにはならないのだが・・・。
*6:製薬会社としては、これも自分たちの立場の正当性を全世界にアピールするためのうってつけの材料になると思われ、何とも言えないしたたかさを感じる。こと開催国においては、ちょうど緊急事態宣言の延長や五輪の開催可否をめぐって世論が尖り始めた時期と重なってしまったこともあって、「最悪手」に近いリリースになってしまったところはあるが(これは日本に限った話ではないが、特にこの国では「特権階級」を生み出すかのように見える施策への評判は極めて芳しくない)、製薬会社側にしてみれば、アピールしたい相手は「日本」ではなく、もっと広いところに目を向けているはずだから、このような「寄付」も戦略としては合理的、ということになるのだと思われる。