著作権法の世界で常に引き合いに出される「パロディ」という領域。
だが、この国では、政治風刺画からオマージュ、同人誌の世界に至るまでざっくりと一つにまとめられがちなこの領域について、より深く意識し、この国の著作権法の下でどう位置付けるべきか、ということを本格的に考え始めたのは、↓の報告書がきっかけだった気がする。
「海外における著作物のパロディの取扱いに関する調査研究報告書」(平成24年3月)
https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkashingikai/chosakuken/hosei/h24_01/pdf/shiryo_4.pdf
折しも、時代はちょうど著作権法の”リフォーム”が唱えられ始めたタイミング。
その年に行われた権利制限規定の改正が不完全な形に終わってしまったことで、”なれのはて”発言をきっかけに「柔軟な権利制限規定」の創設に向けた華々しい言説があちこちで噴き出してきた時期でもあった。
何でもかんでも「米国流フェアユースで!」というムードが強まる中、米国や欧州の判例の分析を通じて、日本人がざっくり「パロディ」と呼ぶものが、「Parody」(狭義のパロディ)と「Satire」(風刺)等のカテゴリーに分けて論じられていること、そして、「フェアユースがあるからパロディは何でもOK」という単純な話ではない、という当たり前の事実に気付かされたことは、その後の著作権法改正の議論にかかわる中でも、生きることが多かった。
翌2013年3月、前記報告書も踏まえて、文化審議会著作権分科会法制問題小委員会パロディワーキングチームから出された報告書(↓)は、当時の議論の一つの到達点だったと思う。
https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkashingikai/chosakuken/hosei/parody/pdf/h25_03_parody_hokokusho.pdf
ただ、先に述べたような議論の複雑さゆえ、「パロディ」はその後の「柔軟な権利制限規定」の議論の中で主役の座を譲ることになり*1、報告書から8年経った今も、「パロディ」に正面から向き合った権利制限規定は未だにこの国の法律に設けられていない。
そんな中、同じく8年越しの世界的スポーツイベントをめぐって飛び出した”パロディ”騒動。
先日亡くなられたエリック・カール氏の『はらぺこあおむし』の主役を今世界中の非難の矢面に立たされているIOC関係者に見立て、「はらぺこIOC」と題して”利権を食い尽くす”さまを表現しようとしたこの風刺画。
そこから伝えようとしているメッセージは、掲載紙の立ち位置等も考慮すると十分理解できる中身ではある。
ただ、そこに借用された素材の版元の社長が、「強い違和感」を表明し、掲載した新聞社に対して「猛省」を求めたことで、俄かに議論は沸騰した。
既に多くの方々が高い評価を寄せられているが、自分も、偕成社が社長のお名前で出されたこのリリースを一読して強い感銘を受けたことは言うまでもない。
コンパクトにまとめられていながら、作品への深い愛と、それをあらぬところで借用されたことへの違和感が実にストレートに伝わってくる。
その一方で、一連の表現手法上の問題の問いかけと「表現の中身」への批判との間には明確に一線が引かれており、さらにその中で「著作権」という言葉は一言も用いられていない。
Twitterでもコメントしたが、この種の「風刺」の本質は、表現自体の攻撃性にあり、それゆえに、攻撃された対象だけでなく、素材を借用された側をも不快にさせるリスクを必然的に伴うことになる。
なので、借用する側は、借用する必要性を慎重に吟味し、説明に耐えうるだけの正当化根拠を準備しなければならないはずなのだが、本件では、そこで付されたのが「エリック・カールさんを偲んで」というとってつけたような理由づけだったことが、作品を愛する人々の怒りに火を付ける結果につながってしまったのだろう、と自分は思っている。
そして、洋の東西を問わず、こういう時に持ち出されるもっとも手っ取り早い武器が「著作権」。
だが、このリリースにはそれが一切出てこないし、だからこそ、「風刺は引用する作品全体の意味を理解したうえでこそ力をもつのだと思います。」という言葉とともに語られる風刺画掲載者への痛烈な批判が、より重みを増して伝わってくる。
もちろんここでは、「出版社」という立場でのコメントゆえに「著作権」を持ち出さなかったという推察もなし得るところではあるのだが、批判の中にも添えられた「表現の自由、風刺画の重要さを信じるがゆえに」というフレーズが、今回のアプローチの背景にある、ありきたりな推察とは異なる意図の存在をも想像させてくれるわけで・・・。
思えば8年前の東京開催決定以来、ロゴマークの世界でも、建築の世界でも、「表現」する側にとっては些か不幸な出来事が続いてきたのがこの五輪というイベントだったように思うし、そこに絡んできたのはことごとく「著作権」という強力な権利だったりもした。
幸いなことにこの国では、五輪に合わせた過剰なブランド保護立法こそ回避されたものの、この先も過剰なあるいは筋悪な権利行使によって、表現の多様性が制約されない保証はない。
だが、表現、そしてその背景にある文化を守る、という視点に立った時に、何でもかんでも「著作権」等の権利紛争の土俵の上に載せようとすることは、果たして正しい在り方なのだろうか?
そして、表現手法の巧拙にかかるあれこれについて、純粋な「表現」の世界の土俵の上で決着を付けようとする姿勢こそが、この国の文化の奥深さを守ることにもつながるのではないか、と思うだけに、本件がその土俵を踏み越えることなく収束を迎えることを今は願うばかりである。
*1:代わって主役に躍り出たのは、産業政策的な色彩が濃い著作物の利用形態であった。