最高裁大法廷決定の先にある未来。

2010年代以降、断続的に法廷に持ち込まれている民法750条をめぐる争いだが、この度、約5年半ぶり、2度目の最高裁大法廷での判断が示された。

「夫は夫の氏,妻は妻の氏を称する」旨を記載した婚姻届の不受理処分を端緒とした家庭裁判所への不服申立てルート(戸籍法122条)からの特別抗告事件。

昨年の暮れに「大法廷回付」というニュースを見たときは、「遂に判例変更か?」と一瞬自分の中では沸き立ったのだが、これは単に、純粋な国賠訴訟だった平成27年の事例とは請求の中身も違憲審査の対象*1も異なるから、というだけの理由によるものだったようで、結果的には再び圧倒的多数の裁判官が「合憲」の結論を支持して抗告棄却。前回の大法廷判決を塗り固めるだけの結果に終わってしまった。

最大決令和3年6月23日(令和2年(ク)102号)*2

民法750条の規定が憲法24条に違反するものでないことは,当裁判所の判例とするところであり(最高裁平成26年(オ)第1023号同27年12月16日大法廷判決・民集69巻8号2586頁(以下「平成27年大法廷判決」という。)),上記規定を受けて夫婦が称する氏を婚姻届の必要的記載事項と定めた戸籍法74条1号の規定もまた憲法24条に違反するものでないことは,平成27年大法廷判決の趣旨に徴して明らかである平成27年大法廷判決以降にみられる女性の有業率の上昇,管理職に占める女性の割合の増加その他の社会の変化や,いわゆる選択的夫婦別氏制の導入に賛成する者の割合の増加その他の国民の意識の変化といった原決定が認定する諸事情等を踏まえても,平成27年大法廷判決の判断を変更すべきものとは認められない憲法24条違反をいう論旨は,採用することができない。」
「なお,夫婦の氏についてどのような制度を採るのが立法政策として相当かという問題と,夫婦同氏制を定める現行法の規定が憲法24条に違反して無効であるか否かという憲法適合性の審査の問題とは,次元を異にするものである。本件処分の時点において本件各規定が憲法24条に違反して無効であるといえないことは上記のとおりであって,この種の制度の在り方は,平成27年大法廷判決の指摘するとおり,国会で論ぜられ,判断されるべき事柄にほかならないというべきである。」(多数意見1~2頁、強調筆者、以下同じ。)

これを受けて、メディアでもSNS上でも、「なんて時代錯誤な判決なんだ」という論調がここ数日盛り上がっているし*3、さらには「最高裁判事の人選がいかん」みたいな話にまで発展してきてしまっている。

自分も、この件に関する自分のスタンスは折々でブログのエントリーに上げてきたとおりだから、当然ながら今回の結論に対しては不愉快なことこの上ないわけだが、ことこの事件に関して言えば、決定理由はともかく、結論としては原決定を破棄して抗告認容、とするには勇気が要りすぎる状況だったような気がするから、特別抗告棄却、の結論を支持して”沈黙”を保った8名の裁判官を批判する気にはなれない。

補足意見で述べられているように、抗告を認容して「夫婦別氏」のまま婚姻届を受理しても、今の戸籍法のルールの下ではその後の戸籍編成、戸籍事務の運用が追い付かない、というのが一つ目の理由*4

さらにより大きな理由は、仮に抗告人が主張するような「救済策」を認めたとしてもそれによってもたらされる効果は果たしていかほどのものなのか?という問題がある、ということで、さる令和3年4月21日に東京地裁で判決が出された事件でも、外国で婚姻した夫婦側が以下のように主張した上で、戸籍法122条に基づく不服申立てではなく,行訴法4条所定の確認の訴え(国による婚姻関係の公証という「公法上の法律関係に関する確認の訴え」)によるべき、という主張を行っていたところであった。

「被告は,本件不受理処分に対して不服があるときは,戸籍法122条に基づく家庭裁判所への不服申立てによるべき旨主張するが,家庭裁判所が審判において命ずることができるのは,婚姻証書謄本の受領であって戸籍の編製や戸籍への記載ではない。また,婚姻証書謄本が受領されても,戸籍事務の処理基準は,法務大臣によって定められ(戸籍法3条1項),戸籍事務の処理は,被告の指示に従わなければならないから(同条2項),被告が,原告らの婚姻の有効性を争い,戸籍への記載はできないと主張している以上,例えば,戸籍事務の管掌者が自らの判断で婚姻について戸籍に記載をしたとしても,同項に基づき,被告がその消除を指示する危険や不安が現にある。そのため,「戸籍への記載によって原告らが互いに相原告と婚姻関係にあるとの公証を受けることができる地位にあること」について,被告との間で確認がされ,この点について被告が拘束されなければ,戸籍への記載によって原告らが互いに相原告と婚姻関係にあるとの公証を受けることができないことに変わりはなく,原告らの危険や不安は除去されない。さらに,被告を当事者とする主位的請求が認容されることで,外国の方式に従って「夫婦が称する氏」を定めないまま婚姻した日本人夫婦について,新たな戸籍を編製すべきか否かなどの戸籍事務の処理基準について被告が定めることが期待される。したがって,上記不服申立ては,原告らの救済手段としては不適切であり,被告との関係で,上記の地位にあることについて確認をする必要がある。」
「そもそも,戸籍法41条に基づく婚姻証書謄本の提出は,婚姻の報告的届出であって,その受理又は不受理は,婚姻の成否ないし有効性や公証を受ける地位に影響を及ぼすものではなく,また,その不受理に対する不服申立ては,婚姻の成否ないし有効性や公証を受ける地位の有無について審理及び判断をするものでもないから正にこれらが争点となっている主位的請求に代わる司法上の救済とならない。」(以上、東京地判令和3年4月21日・H30(行ウ)246号)

当の東京地裁は、通則法24条1項、2項に基づいて「外国の方式に則って行った婚姻の効力を日本国内でも認める」という判断を下しておきながら、「戸籍への記載によって婚姻関係にあるとの公証を受けることができる地位にあることの確認よりも,上記の不服の申立てによる方がより有効で適切であることは明らかである」として主位的請求を却下してしまっているから、今回の大法廷決定と合わせて読むと話が堂々巡りになっている感もなくはないのだが、大法廷の判断によってもたらされる法的効果が、(原決定取消しによる)「届出受理の強制」ではなく、「婚姻関係にあることの確認」だけであったとしたら、裁判官の意見分布ももう少し異なったものになった可能性もあるのではないかと思う。

そして、そのような観点からは、「違憲」論を徹底的に展開しつつも、結論は多数意見支持、とした三浦守判事(検察官出身)の「意見」が自分にはもっともしっくりくるものであった。

ちなみに、三浦判事の意見と、反対意見(宮崎裕子・宇賀克也両判事連名のものと草野耕一判事のものがある)を合わせると実に43ページにもなるこの公表決定文だが、その中でも目を引いたのは、宮崎、宇賀両判事が「氏名に関する人格的利益」について力説されていたくだりだろうか。

「本件で主張されている氏名に関する人格的利益は,氏を構成要素の一つとする氏名(名前)が有する高度の個人識別機能に由来するものであり,氏名が,かかる個人識別機能の一側面として,当該個人自身においても,その者の人間としての人格的,自律的な営みによって確立される人格の同定機能を果たす結果,アイデンティティの象徴となり人格の一部になっていることを指すものである。これは,上記 において述べた人格権に含まれるものであり,個人の尊重,個人の尊厳の基盤を成す個人の人格の一内容に関わる権利であるから,憲法13条により保障されるものと考えられる。したがって,この権利を本人の自由な意思による同意なく法律によって喪失させることは,公共の福祉による制限として正当性があるといえない限り,この権利に対する不当な侵害に当たる。このように,この人格的利益は,法律によって創設された権利でも,法制度によって与えられた利益や法制度の反射的利益などというものでもなく,人間としての人格的,自律的な営みによって生ずるものであるから,氏が法制度上自由に選択できず,出生時に法制度上のルールによって決められることは,この人格的利益を否定する理由にはなり得ない。」(23~24頁)

「個人識別機能」云々のくだりは、いかにも宇賀先生らしいご意見だと思うし、巷でよく言われているような(そして平成27年大法廷判決でも一部の反対意見で強調されていた)女性差別的文脈での平等権侵害の主張*5に比べれば、こちらの方が法的にはまだ筋の通った主張だと思うのだが、(個人情報保護の議論の時に抱く違和感と同様に)「氏名権」なり「氏名に係る人格的利益」をあまりに強調されてしまうと、これまた議論の本質からズレた話になってしまうような気がする(そして、「それなら通称使用を徹底的に認めればいいじゃないか」という方向に収斂されかねない、ということになりかねない、という点でも、あまり良い筋の主張ではないのではないか、と思っている)。


また、この種の事件の”一丁目一番地”である、「法律によって婚姻の成立に何らかの制約を課すことが憲法24条1項の趣旨に照らして,婚姻をすることについての当事者の自由かつ平等であるべき意思決定に対する不当な国家介入に当たらないか?」という点については、法的な立論としては、三浦判事の意見と、宮崎・宇賀両判事の反対意見で述べられていることに尽きるだろうと思っている*6

ただ、自分自身この10年くらいの歳月を経て感じているのは、「長年安定的なパートナーシップを築いている相手方との間で法律婚(戸籍婚)という手続きが行えなかったとしても、そこに何らかの不利益があるといえるのか?」ということである。

自分自身の経験で言えば、日常生活において何ら不便がないのはもちろんのこと、少なくとも同一世帯として住民登録している限り、自治体の事務手続上も自然体で扱ってもらえるからそこで不自由を感じたこともない。

もちろん、税金のところだけは今のところどうにもならないので、双方が経済的に自立していればそれにこしたことはないのだが、一方で健保や厚生年金に関しては、戸籍上の婚姻関係がなくても一方が相手方の扶養に入ることはできるので、それさえあればもはや十分ではないか、という気もする*7

今回の大法廷決定で、反対意見が「夫婦同氏制の合理性が失われている」根拠として挙げている「旧姓使用の拡大」にしても、そもそも法律婚の届出をしなければ本来の姓を使うことに何ら支障はなく、対外的に関係が公示されることもない、ということを考えると、氏名の継続使用を望み、パートナー関係にあることの対外的な公示を望まない人々にとっては、法律婚をしない」という選択肢の方が遥かに合理的だといえるだろう*8

さすがに、今、既に「入籍」している人々に対して「いったんそれを解消して・・・」ということを求めるのはハードルが高いにしても、これからの選択肢としては、同性、異性問わず自治体レベルのパートナー証明までにしておく、という流れは確実に出てくる。

そして、そうなってくれば、今行われている「夫婦同氏制」か「夫婦別氏選択制」か、などという議論の実質的な意味もほぼ失われるはずである。

今後どうなるかは、大法廷から投げられたボールを立法機関がどれだけ素早く投げ返すかにかかっているわけだが、「我が国の麗しき慣習」*9とやらを守らんとする抵抗勢力が国会で足を引っ張り、最高裁違憲判断に踏み込むことを躊躇している間に、「法律婚」制度の存在意義自体が揺らぐとしたらそれはそれで痛快ともいうべき話なわけで、(我も当事者と言えば当事者なれど)ここは高みから、この先の帰趨をじっくりと見届けることとしたい。

*1:今回は、民法750条と並び、直接的には不受理の根拠規定である戸籍法74条1号の合憲性が中心的な争点となっているように思われる。

*2:https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/412/090412_hanrei.pdf

*3:自分の記憶が正しければ、6年前の暮れにはここまでの盛り上がりは見せていなかったような気もして、それだけ声を上げる人が増えてきたのは悪い傾向ではないと思う。

*4:補足意見は「このような届出によって婚姻の効力が生ずると解することは,婚姻及び家族に関する事項について,重要な部分に関する法の欠缺という瑕疵を伴う法制度を設けるに等しく,社会的にも相応の混乱が生ずることとなる。これは,法の想定しない解釈というべきである。」(17頁)とまで述べている。もちろん、民法、戸籍法の規定が憲法違反、という前提に立つなら、他の制度との整合よりも何よりも戸籍に夫婦として記載することをまず優先すべきだろう、というのが正論だとは思うし、「システム整備が間に合わないからあと●年我慢して」という話でもないとは思うが、子の扱いも含めて宙ぶらりんな状態の戸籍があちこちで乱立するのもそれはそれで困ったことになりかねないな、という気はする。

*5:この主張は「夫・妻いずれの氏に合わせても良い」という制度自体の中立性を半ば無視し「これまでの慣行」にのみ着目して行われる主張だから、社会運動としてはあり得ても法的な主張としてはあまりに無理があり過ぎると個人的には思っている。この理屈だと、仮に今後世の中の意識が変わって妻側の姓を選択する夫婦が5割前後に達するようになれば「同氏強制」でもいい、ということになりかねないのだが、そういう問題ではないと思うので。

*6:そして三浦判事が「婚姻の自由を制約することの合理性が問題となる以上,その判断は,人格権や法の下の平等と同様に,憲法上の保障に関する法的な問題であり,民主主義的なプロセスに委ねるのがふさわしいというべき問題ではない。」(11頁)として、多数意見の”立法裁量丸投げ”を厳しく批判していることについても、まさに仰る通り、というほかない。

*7:後は、お互い生命保険の受取人に指定しようとするとやたらやかましく手続きを求めてくる日系の保険会社を外資系生保に代え、万が一に備えて遺言を用意しておけばそれで十分である。

*8:そもそも、伝統的には、男女問わず、姓を変えて「公示」するという点に法律婚の意義を求めていた人々は多かったわけで、時代の流れとともにそういった法律婚の効果、機能に違和感を抱く人が増えてくれば、「『法律婚』という制度そのものを利用しない」という発想が今後主流になっていったとしても、全く不思議ではない。

*9:本決定48頁、草野裁判官の反対意見より表現を借用した。

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