ついこの前、が開会式だったはずなのに、続々と競技が進行していくパラリンピック。
自分自身は特に決まった休みがある身ではないにしても、本格的な夏の始まり、連日の華やかな報道等もあって、仕事のやり取りをしていても何となく”小休止”モードだった五輪の時とは異なり、今は年末に向けたリスタートで様々なものが動き出している時期。加えて、世の中も新型コロナ以外は完全に平時モードだから、テレビで中継をしているかどうか、なんてことにかかわらず、競技をリアルタイムで見るのはまず無理、という状況である。
大体、オリンピックスタイルの進行に馴染んでいる者としては、競泳と陸上が同時進行、というだけで、焦ってしまうわけなのだが・・・。
それでも、この大会に関しては、競技の映像をいつになく見ている気がする。
実況なしの競技映像をそのままアーカイブ化して配信してくれるNHKのプラットフォームの恩恵が大きいのは確かだが、同時に、リオ以降の5年の間、それまでとは質・量ともに異なるパラ競技、パラアスリートの情報に接していたことと、大会に入ってからも現場からの情報を比較的詳細に伝えてくれる活字メディア、ウェブメディアの影響も間違いなく大きい。
そして、一度見ると”ハマる”、競技自体の魅力が何よりも一番なのかもしれない。
何といっても自分がもっとも衝撃を受けたのは、車いすバスケの「進化」だ。
世紀の変わり目くらいの頃、仕事でチェアスキーのイベントの手伝いをやっていた縁などもあって、当時の車いすバスケの大きな大会を観戦させていただくような機会もあったのだが、その頃のイメージで久しぶりに見たら、車椅子の細かい動きから、パス回し、得点のパターンといったこの球技としての本質的な部分までまるで別次元・・・。
昔から、パラスポーツの中では一番難易度が高くて、単に障がいを持たない、というだけでは何のアドバンテージにもならない、と言われていたスポーツではあったのだが、今のあのレベルでの試合を見せられてしまうと、日頃車椅子を使わずに過ごしている者が混じってもただの足手まといにしかならないだろう、と思う。
出場する選手たちの障がいの軽重が予めルールに織り込まれている競技だから、いわゆる「ハイポインター」と「ローポインター」の選手たちの間には運動機能にかなりの差があるはずなのに、それぞれの選手たちがレベルに合わせて自分たちを生かす策を心得ていて、それに合わせた戦術も展開されているから、プレーを見ているだけで「違い」を感じることはほとんどない。
ゴール下まで切り込んでシュートを打つか、離れたところから3ポイントを狙うか、はたまたガード&スチール役に徹するか、時間をかけて磨き上げたチーム戦術あってのことだとは思うが、次々と選手が入れ替わっても、皆自分の仕事ができる、というのはホントに凄い、と思ってしまうわけで、ベタな言葉で言うと、男子も女子も「理屈抜きにカッコいい」。
リオの時にも見ていた車いすラグビーも、激しさはそのままに、戦術的なバリエーションは明らかに増えた。
ゴールボールは攻撃のバリエーションが増え、それに応じる選手たちの守備時の動きもより俊敏さを増した。
陸上や競泳は、本質的な部分ではずっと変わっていないが、選手たちを補助する技術が大会ごとに進化しているのも、これまた明らかで、それは走り幅跳びの記録の伸び方などに如実に現れていたような気がする。
ボキャブラリーがだんだん貧困になっていくが、最後は「とにかく凄い」という感想にしか辿り着かないのである。
だから、自分の住んでいる国で行われているにもかかわらず、ここしばらくはずっと睡眠不足・・・。
5年前、あるいはその前から出場し続けているようなアスリートであれば、なぜ「障がい」を持つに至ったか、というエピソードなどもこれまでに得た情報の中で何となく頭に入っていて、だからこそ、プレーする姿を見るだけで何となく涙が誘われてしまうような場面に遭遇することも稀ではない*1。
初出場の選手たちでも、気になって調べると皆それぞれの「理由」「事情」があるわけで、そういうものが切っても切り離せない関係にある、というのがパラリンピックの宿命であるとも思う。
ただ、競技者として選手たちが自分の持てる能力を最大に生かした戦いをしている姿を目にすると、そんなバックグラウンドの記憶や情報も、瞬間的にどこかに飛んでいく。
誰もが年齢等にかかわらず、将来「障がい」を負う可能性はある。自分自身は難を免れても、身近な人がそういった運命に遭遇する可能性だってある。
だからこそ、今、自分がこうやって様々なものをしっかり刻み付けておかないといけないな、と思う。
そして、新型コロナの波に翻弄されながらも、既に折り返し地点に差し掛かったこの大会が最後まで無事執り行われることを、改めて心から祈っている。