週明け早々、日経法税務面の明日からしばらく話題になりそうな某メーカーの記事の隣に上村達男・早稲田大学名誉教授の「経済教室」の論稿が掲載された*1。
上村先生と言えば会社法の世界では誰もが知る学界の権威。早大を退職されたのは2年前のことだが、その後もヤフー対アスクルの一件での法律意見書で”資本の論理”に”喝”を入れられるなど*2、節々で書かれたご意見等を拝見することも多い。
そんな上村名誉教授が、
「過度な議決権行使に規律を」
という大見出しで始まる論稿を書かれているのを目にすれば、休み明けのぼんやりした気分など一瞬で吹き飛ぶわけで、朝早い打合せが目前に迫っていることも忘れて、食い入るように読んだ。
「「会社は誰のものか」と問われて「株主のもの」と答える人は多いだろう。だが株主は株式の所有者であっても企業の「主」ではない。企業の社会的責任が厳しく問われる時代を迎え、アクティビスト(物言う株主)などの投資家もその責任を担わねばならない。株主の議決権とは何かという本質に立ち返り、会社法を見直す時期に来ている。」(日本経済新聞2021年11月8日付朝刊・第16面、強調筆者、以下同じ。)
常に「会社の本質」に立ち返って問いを投げかけられる、というのが、上村先生がメディアで発信される論稿の特徴で、自分自身、このブログでも何度となく取り上げた。
巷を賑わせた話題で言えば、「ライブドア」や「村上ファンド」に対しては常に厳しい目を向けられていたし、法律系のメディアでも新しい会社法ができた時に、徹底的な批判を展開されていたことは今でも懐かしく思い出される*3。
新会社法を駆使した”テクニック”があちこちで吹聴される中で、あるべき「道」を説かれる上村教授のご意見には一種の高貴さすら感じられたし、実際、何度かの資本の”暴走”が顕在化するたびに、書かれていたことを思い返したものだった。
当時主流の「法曹教育」の外側でプロを目指していた身としては、↓のような記事が心の支えになっていたところもある。
k-houmu-sensi2005.hatenablog.com
だから、前記のような書き出しで始まった今回の論稿も、ワクワクしながら読み進めていたのだが・・・
今回の論稿に関しては、今ひとつピンと来なかったところが多かったような気がする。
上村名誉教授は、日本の「株主」の議決権行使の実態について、
「今日、株主総会で議決権を行使するには、名義書き換えの基準日に株主名簿上の株主であればよい。つまり総会前に株式を売った株主でない者も3カ月後の総会で議決権を行使できる。」
「加えて株主総会での質問は事前の質問状で事足り、決議も書面で行われる。株主の属性は一切問われない。例えば人間の関与度が最小の匿名ファンドは、実質的な出資者が敵対する国家でも反社会的勢力でも構わない。要は株主とはカネがあるから株式を買えた者であり、それだけの正当性でもって企業や企業を取り巻く人間たちを支配できるとされてきた。」(同上)
と定義した上で、「しかしその感覚はもともと世界標準とは言えない。」と述べられ、欧州の制度等と比較しつつ、「人間中心の議決権制度」を構築しなければならない、と説かれている。
「とりわけ会社が、労働や環境、消費や人権といった人間社会の根幹に関わる問題の判断を迫られるとしたら、人間の名において判断されねばならない。モノを作らず、サービスも提供せず、従業員にも消費者にも関わらないファンドのカネの力に人間社会のあり方に関わる判断を委ねることがあれば、それは人間社会の堕落以外の何物でもない。」(同上)
と書かれているくだりなどを見ると、近年脚光を浴びているSDGsのようなものを意識してのコメント、ということでもあるのだろう。
確かに、資本多数決の原理だけで、企業が守らねばならない、あるいは守ろうとしている社会的価値がないがしろにされてしまうのは決して好ましいことではないから、著者が強調されるような「特定の株主に過剰に与えすぎた権限を本来の姿に戻す」ことの意義は自分も否定するものではない。
ただ、首を傾げたくなるのは、これに続いて、次のように述べられている点にある。
「そうした観点から、個々の問題に応じて株主の「物言う資格」を厳密に確認する法理を確立する必要がある。まずは英独仏に存在する株主の属性を確認する制度を創設することだ。非居住者を含むファンドなどに実質的な株主の開示を求め、株主行動を予測するため取引履歴も開示させるべきだ。こうした情報提供により、市民社会の仲間であることが明らかな株主に限り議決権を行使できるように誘導すべきだ。」(同上)
今、まさに経済安全保障等の見地から、一部では「株主の属性」に厳しい目が向けられるようになってきている時代だから、過程はともかく結論だけ見れば、時代の潮流ともマッチしている、ということになるのかもしれない。
だが、どうしても違和感がぬぐえないのは、前記のような提言が、株主が実際にどう振る舞うか、ということにかかわらず、その「属性」だけで株主の基本的な権利に制約を課そうという発想に立っているもののように見えることである。
匿名のファンドであれば、全て企業を反社会的な、よからぬ方向に導く議決権行使を行うのか?
逆に「顔が見える」株主は、全て社会的に適切な方向に企業を導くために議決権を行使するのか?
そう問われれば、分かっている人なら、おそらく誰もが首を傾げることだろう。
上村名誉教授は、
「租税回避地などを本拠に利己的に利益追求する出資者匿名ファンドと、個人株主や彼らの資金を長期運用する年金基金を株主として同列に扱ってよいはずがない。」
と書かれているが、利潤追求を意図した匿名ファンドのアクションに年金基金が同調することもあれば、匿名ファンドを通じてSDGsアクションがなされる場合もある。
要は、規制されるべきは株主の具体的な「行動」であって、「属性」ではないだろう、ということ。
そして、「属性」を元に「良い株主」と「悪い株主」を選別できるような機会を会社に与えてしまうことになれば、一進一退を繰り返しつつも前進してきたこの国の資本市場を、30年くらい先祖返りさせることにもなりかねないような気もする。
おそらく、著者が念頭に置かれているのは、最近しばしば見かける、会社の存続を脅かすような高額の配当議案を提出したり、会社の社会的意義とは無関係に利益追求最優先のアクションを起こしてくるような一部のファンドで、毎年のようにあちこちの会社で繰り返されるそういったアクションを憂いて筆をとられた、というところはあるのかもしれない。
ただ、そういった動きを野放図に許容するほど今のこの国の市場ルールは緩くないし、そういったルールの下で、他の株主がケースバイケースで当否を適切に判断する、というしなやかさも今の市場参加者には十分にあると自分は思っている。それよりは、”株主も共同体の一員たるべし”として、緊張感のないガバナンスモードに持ち込もうとする会社の思惑を戒める方が、今は優先されるべきことではないだろうか。
泰斗の言葉には重みがある。だが、だからこそ、それが書いたご本人すら意図しない方向で悪用されないように、ここにささやかなメモを残しておく次第である。