たとえ「異形」といわれても。

気が付けば始まっていた・・・という感のある2022北京冬季五輪

国際情勢が日々緊迫の一途を辿っている中での開幕、ということもあって、五輪をめぐる話題もアスリートの話題以上に政治的な話題が多い気がする。

何といっても開会式の翌日に、

北京冬季五輪がいよいよ始まった。開幕に先立ち、新疆ウイグル自治区での人権問題で批判される中国の習近平(シー・ジンピン)国家主席ウクライナ危機のさなかにあるロシアのプーチン大統領が協力を誓い合った。「平和の祭典」というにはあまりに皮肉な光景だ。」(日本経済新聞2022年2月5日付朝刊・第1面、強調筆者)

という書き出しで始まる中国総局長の署名記事が紙面を飾る(「異形の五輪、教訓残せるか」)五輪というのもなかなかないだろうな、と思う。

五輪の開催スケジュールが変則的になり昨年の夏の閉幕から半年も経たないうちに始まった大会、ということもあって、どうしても自国で行われた”遠い日の花火”と比べてみてしまうのだが、開会式自体は、過度に民族性を押し出しすぎることもなく、国際的なイベントのスタンダードに則って粛々と行われた”隙のない”ものだったと思う*1

そして、オミクロンの脅威があろうがなかろうが、「五輪」というイベントの本質が、現地でリアルを楽しむことではなく、切り取られた美しい映像と物語をコンテンツとして消費させることにある、ということにあることに目を向けるなら*2、どこの国で開催したところでコンテンツとしての価値も、それを通じて得られるものもそう変わるものでもないな、というのが率直な感想だったりもする*3

もちろん、テレビに映っているものの裏側に目を向ければ、

・「外交ボイコット」がさしたる効果を発揮できないまま、親中・非民主主義国家の首脳が開会式に集う不穏な空気。
・五輪の場から放逐されて久しい「ロシア選手団」がより存在感を増して各競技に参加している現実。
・二転三転した末に、勇気を奮って開会式に参加した台湾代表への冷淡な空気と、その直後に入場した香港代表への”人工的な”声援の大きさのギャップ。
・アスリートファーストとは言い難いアイスバーン化した人口雪。
・さらにアスリートを苦しめるオミクロン猛威下での強行開催。

等々、目をそむけたくなるものは多々潜んでいる。

ただ、どんな国の、どんな政権下での大会であったとしても、

雪の白と抜けるような空の青さのコントラスト

の美しさに疑問を入れる余地はない。

そして、バッハ会長がどれだけ開催国に対して社交辞令を述べようが、そこで超人的な技を競い合い、結果の良し悪しにかかわらず称えられるべき存在は、習近平でもプーチンでもなく、雪を追い求めて世界中を転戦しているアスリートたちなのだ、ということは、決して忘れてはならないことである。

”地の利”がない日本選手団に多くを期待することは難しいし、そういう盛り上がりが欠ければ欠けるほど”場外”の話題がメディアを賑わすことにはなるのだろうけど、それはそれ。

今は、4年に一度、決して恵まれていない環境でも競技を続けてきた選手たちの一瞬の輝きに水が差されないことを、ただただ願うのみである。

*1:この辺は自国のイベントに対してはどうしても見る目が厳しくなってしまうところがあるのは否めないが、それを差し引いても、グダグダが前面に出ていた「TOKYO」に比べると、今回の方が数段洗練されたイベントになっていたように見えた。

*2:これは自分自身が4年前、実際に「五輪会場」に足を運んで感じたことでもある。

*3:仮に今大会の映像の発信元が北京ではなくアルマトイだったとしても、開会式や連日発信される競技映像に対して抱く思いは変わらなかっただろう。あえて変わるところがあるとしたら時差の関係で生活リズムが乱れるかどうか、くらいである。

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