再びめぐって来た、11日の金曜日。

毎年書いていることではあるけれど、月日が流れるのは残酷なまでに早い。

あれから11年。

3月は今も昔も特別な月で、一瞬で過ぎ去る2月のカレンダーをめくる頃から様々なことを思い出すのは毎度のことではあったのだが、特に今年は、曜日のめぐりが全く同じ、ということに週の真ん中で気付いてしまったことで、そこから「3・11」にフォーカスした記憶が走馬灯のようにめぐっていた。

とはいえ、当日になってみると、「いつ冬が終わるんだろう・・・」という数日前までの雰囲気が嘘のように気温が急上昇して、(決して季節外れではないのだが)季節外れのようにすら感じるポカポカ陽気はあの日とは真逆。

唯一同じだったのが、部屋の窓から見えた東京の良く晴れた空だけだった、というのは良かったのか悪かったのか・・・。


前回、「11日の金曜日」のエントリーを書いたのは2016年のことで、当時ですら「震災から5年」という節目で世の中は振り返りモードに入っていた*1

k-houmu-sensi2005.hatenablog.com

あれからさらに6年、政権は度々代わり、全国各地で毎年のように局地的な天災地変が起き、さらには世界中を巻き込む「パンデミック」という一大事が続く中、景気も山あり谷あり、さらにここにきて欧州は戦禍、となれば、10年以上も昔のことへの関心を向けさせること自体が難しいのは当然のこと。

オフィシャルなメディアは、辛うじて現地の役所、会社で働く若者から球界の大エースに羽ばたこうとする若武者まで、様々なエピソードとともに当時の記憶を語り継ごうとしているが、今まで様々な災厄とその後の報道を見てきただけに、この類の報道が年々小さくなっていくことはあっても、決して大きくなることはない、ということも分かっている。

でも、だからこそ拳に力を込めたい・・・と思ってしまうのは、いささか世に抗い過ぎだろうか。


震災の前後に経験したこととは、なんとなく陥りかけていた緩々とした自分の仕事観を根底から覆した。
その時までどこか周りに合わせる方に目が向いてフワフワと彷徨っていたようなところもあった自分に、覚悟の日々を過ごさせてくれることになったきっかけが、あの当日の夜から次から次へと湧いてきた難題だったということも、改めて振り返るまでもなく分かっている。

ただ毎年、この日がめぐってくるたび、そういったエピソードを詳細に言語化して残しておこうと思いながらも、どこかで躊躇してキーボードを打つ手を止めてしまう自分がいる。

そして、それをきちんと消化して言葉にできる日が来るまでは、自分にとっての「3・11」もまだ終わらないのだろう、と思うわけで・・・。

この一年間、パンデミックを口実に慌ただしさにかまけて、現地にまるで足を運ぶことができなかった不明を恥じつつも、また人生の次のフェーズ、どこかでかの地とかかわる予感はしているだけに、まだしばらくは、抱え込んだ記憶とともに、歩みを進めていきたいと思っている。

*1:それでも、その当時対応した現地視察への対応を「観光」と形容した若者に、当時の壮絶な記憶が残っていた関係者からの鋭い視線が突き刺さるくらいの緊張感はまだあったが。

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