「震える手」で動かした先にあるもの

今朝の日経紙朝刊、「陸奥宗光」から始まる、ともすれば見逃してしまうくらい地味だがズシリと刺さったコラムがあった。書き手は斉藤徹弥上級論説委員

「土地は公のもの」震える手で

という見出しの記事である*1

何といってもインパクトがあったのは、中盤に訪れる以下の一節。

「地租改正150年の今年、政府は所有者不明土地問題で公共の福祉を優先した土地所有権の抑制に踏み出す。4月に始まる相続土地国庫帰属制度をアメ、来春からの相続登記の義務化をムチとし、めざすのは「土地は公のもの」という意識の醸成である。」(強調筆者、以下同じ)

改正法の第一次施行まで既に2か月を切った今の段階でもそこまで大きな話題にはならず、ひっそりと始まりそうな気配すらある今般の民法不動産登記法改正だが、ここで土地所有権の「抑制」というストレートな表現が使われていることには、素直に驚きを感じた。

そう、今回の改正法、特にあまり注目されていない「民法」側に仕掛けられた改正内容をよく見れば、その狙いがこれまでの「強すぎた」所有権に対する「抑制」にあることは明確だ。ただそれを言葉にした時の重さとハレーションの大きさゆえ、「所有者不明土地対策」というお題目にまぶして、多くの人々がそれを正面からは指摘してこなかったという現実がある。

それがここに来てストレートに表現されたことに、自分はある種の爽快感と痛快さ、そして身震いしたくなるような怖れすら感じる。

さらに続く記事。

憲法の財産権がかかわる土地所有権のあり方を転換する大事業に、さほど甘くないアメとわずかなムチでそろりと踏み出すのはまさに「着眼大局、着手小局」だ。大構想も小さな実践から始まる。」
「実際、脱線の懸念はある。所有者不明土地問題は政治主導で進んできた。「土地は公のもの」と唱える先に、公共事業を強引に進める思惑が見え隠れするようでは危うい。」
「都市計画の専門家にも一気に欧州のような厳しい建築規制にすべきだとの声がある。目標はそこにあっても、いきなり個人の土地所有権を制限すれば反発や混乱を生み、目標達成を逆に難しくする。」

土地を公共のために使いやすくする、ということが今回の改正の主眼であることは疑いようもない事実だから、「公共事業を進めること」を脱線と評するのはいささか言い過ぎな気もするが、急進的に過ぎる動きが目標達成を妨げる結果を生む可能性については自分も同感である。

そして、これに続く以下のフレーズが、この記事のハイライトになっている。

『震える手でしか法に触れてはならない。立法者たちがそこまで厳格さを守り用心を重ねることで、法は神聖だと人民は結論するはずだ』一連の土地法制の改革に携わった山野目章夫早大大学院教授は、このモンテスキューの言葉を引き合いに、大きな改革ほど丁寧さが大切だと説く。」

そう、自分もまさに新たなルールを作ろうとする時に求められるのはこれに尽きる、と思っている。

それはただのノリか勢いか、はたまたファッションのつもりか?というような「パブリックアフェアーズ」はこれまで散々眺めてきたし、その多くは無残にも散っていった。

でもその陰で、ひっそりと、だが着実に「岩」を動かしたのが「令和の土地法制改革」であり、それが少なくとも法施行の段階にまで辿り着けた背景に「手を震わさんばかりの繊細さ」があったことは疑いようもない。緻密なストーリー作りに始まり、役所間さらには政官財までまたがった根回し、そして法律ができた後も様々な可能性をベールに包んだままの”優しい”説明が続いているからこそ、施行日を目前に控えた今になっても、ブーイングを見かけることは稀である。

だからこそ、ことの核心に触れたこのコラムには、非常に読み応えがあった。

おそらく、法が施行され、様々な仕掛けが実際に動き出せば、ベールに包まれていた改正法の神髄も表に出てくるようになるだろう。

今回のコラムは、様々なものを暴きつつも、向かっている方向性それ自体は支持するトーンの強い記事になっているが、いずれ、そうではない、より反対側に尖った論陣が張られることだって十分あり得る話である。

だが、仮にそうなったとしても、自分は、一度動かされた時計の針が逆回転することは決してない、と信じているし、「気付いたころには世の中変わっている」、そんな世界が現実のものになっていることを強く期待している。

泣いても笑ってもあと1ヶ月ちょっと。決してそれはゴールではなく、新しい世界の始まりの小さな一歩に過ぎないのだけれど、今はその瞬間をしっかりと見届けたいと思っているところである。

*1:日本経済新聞2023年2月15日付朝刊・第7面「中外時評」

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