先日ご紹介した*1、総務省の「法科大学院見直しプロジェクト」*2。
意見募集は今日の午後6時まで受け付けてくれるらしいが、正直、提出用に意見を綺麗にまとめるような余裕はとてもないので、とりあえずここに、今自分が考えていることを書き留めておくことにしたい*3。
法科大学院制度と新司法試験制度について
どんな世界でも、この手の意見募集をかければ(しかも匿名で公表されることが前提となっていれば)、多かれ少なかれ「ネガティブな意見」が多数を占めることになるわけで*4、現在公表されている意見の大多数が(トーンの差はあれど)現状に批判的な意見だ、というのは、ある意味当然のことと言える。
もちろん、今法曹界が直面している現実を鑑みると、その種の批判も全く理由がないとはいえないのだが、後述するとおり、そのまま賛同するにしては、あまりにバイアスがかかり過ぎた意見のように思えるので、ここは少し違う角度から捉えてみることにしたい。
* * *
自分は、今、法科大学院が迷走している最大の理由は、「競争(選抜)試験」に関する普遍的な“法則”を十分に踏まえないまま制度設計がなされたことにある、と思っている。
“法則”の中身を具体的に挙げるなら、
(1)ある程度の「選抜」を目的とした試験に合格するためには、多かれ少なかれ、その試験のための「対策」を行うことが欠かせない*5。
(2)出題形式や作問にどんなに工夫を凝らしても、日頃の「実力」を正確無比に反映できるような試験問題を作成することはできない*6。
(3)目の前に大きな「選抜」試験が待ち構えている環境においては、「修得すれば役には立つが、その試験の対策にはあまり役に立たない情報」に、多くの人々は関心を示さない*7。
といったところだろうか((3)は、(1)、(2)の帰結ともいえる)。
そして、その結果として、
「法科大学院のカリキュラムに合わせて2〜3年の間一生懸命勉強しても、試験の壁に突き当たって挫折感を味わう」*8
「法科大学院で理想に燃えた教授陣がどんなに良い講義をしたとしても*9、「試験に役に立たない」、「予備校の方がまし」という意見によって切り捨てられ、批判と嘲りの対象になってしまう」
という事態を招いていることは否定できないのではないかと思う*10。
法科大学院&新司法試験制度が導入された背景には、古い試験のバブル期(合格者が1,000人を超えて1,500人に達するまでの時代)に、「日頃の大学での努力」と「試験結果」の乖離が著しかった*11ということへの反省があったのは間違いない。
だが、「実務教育に特化した専門職大学院」を立ち上げ、「実務能力を測るにふさわしい新しい試験」を作れば、「教育プロセス」と「付与される資格」と密接にリンクするだろう・・・という理想主義に基づいて設計された制度は、未だ十分に機能していないように思われるし、上記の“試験の法則”に鑑みれば、理想通りに機能させるのは、ほぼ不可能と言って良い。
そして、理想主義が機能しないがゆえの“制度の共倒れ”を防ぐためには、やはり、「教育・研究の場」としての大学院と、「競争(選抜)試験」を分離せざるを得ないのではないか、と思っている。
法科大学院の修了特典を(旧試験ベースでの)「短答式試験免除」くらいのレベルにとどめ、“非法科大学院ルート”の受験者に広く司法試験受験の機会を確保する代わりに、法科大学院の位置づけを変えて、(かつての社会人大学院と同等のレベルで)現役法曹や企業人、留学生といった多様な人材を幅広く受け入れる(それによって、大学院内に知的刺激と一般社会との接触の機会を大学院内に確保する*12)ようにすれば、現状よりは遥かにマシな制度になるはずだ*13。
もちろん、コンセプトが変わってしまうと存続不可能になる法科大学院が出てくる、というのは、当然予想されるところだが*14、このまま行けばいずれ干乾びる運命にあるのだから、同じことだろうと思う。
「批判」への批判
さて、ここまで書くと、「何だかんだと勿体付けた割には、結局、「法科大学院制度廃止」を叫ぶ“多数派”と言ってることは同じじゃねーか」という突っ込みが入りそうだ。
そう括られてしまうと、元も子もないし、実際その通りなのかもしれないが、自分が“多数派”の意見に少なからず違和感を抱いた、ということも一応記しておきたい。
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