4年に一度の想い。(その1)

1ヶ月の長きにわたるサッカーのお祭りも、
残すところあと2試合。
毎日のようにサッカーの話題に興じていた
本ブログのグダグダな記事の連続にも、まもなく終わりを告げる。


本来のブログの趣旨から外れて、サッカー三昧の記事を連発していた
最近の流れに違和感を感じていたむきは多いと思うだろうし、
その原因のひとつが、筆者の人並み外れたミーハーさにあることは否定しない(苦笑)。


だが、サッカーというスポーツは、
自分にとって、まともに打ち込んだ“唯一の団体競技かつ球技”であり、
同時に、“一種の職業として”続けてみたいと願った唯一のスポーツでもある。
それゆえに4年に一度の祭典に対する思いも深い。



実のところ、自分の競技者としての時計の針は、
12歳の夏で止まっている。
学年に引き直せば小3の秋から小6の夏までの話に過ぎない。


だが、振り返れば、子供ながらに密度の濃い3年間だった。
所属チームは県内でも有数の強豪。
静岡に次ぐサッカーどころ、と言われた地域の中で、
一流のコーチの指導を受け、一流の選手たちと競い合うことができる環境であった。


もちろんプロリーグができるなんて夢のまた夢、という時代。
3歳の頃からボールに戯れ、抜群のテクニックで鳴らした選手でも、
中学校、高校と進むにつれ、より小さくて硬いボールに心惹かれる時代ではあったのが、
そのときの自分にはサッカーしかなかった。


どれくらい夢中だったかといえば、
小4か小5かの時に、

「将来は、高校選手権で優勝して、名門大学から実業団に進んで、日本リーグの選手になりたい。引退したら子供たちにサッカーを教えたい。」

と、夢があるのか現実的なのかよく分からない(笑)“願いごと”を
書くほどであった。


もっとも、“選手生活”を現実的な目標として立てられるほどの選手だったかといえば、
答えはNo。


自分が地域に引っ越してきたのは小学校に上がるか上がらないかくらいの時で、
それからもしばらく地元の“輪”には溶け込めずにいたから、
ボールに初めて触ったのも、周りの連中に比べればはるかに遅かった。


華麗なリフティングはもちろんのこと、
器用なドリブルで、フラッグを縫って前に進むことすらできない。
パスを受けても最初のトラップでボール弾いて慌てて追いかける・・・
最後までそんな按配だった。


そんな自分でも時々は試合に出してもらえたのは、
小5にして身長160cm到達、小6の夏にして170cm到達、という
小学生離れした体格と*1
(当時としては)速かった足のおかげである。


当時の憧れは、なぜか修哲トリオの一角、滝一(笑)。
理想は“サイドラインを駆け上がって斜め45度から弾丸シュート!”。
さらに、ブンデスリーガから帰ってきた当時のスター、奥寺康彦選手が
左ウイングで鳴らしていたこともあって、
左利き(正確に言えば左足でしかボールを蹴れない)の自分にとって、
“左ウイング”というポジションは“不動”のものとなっていた。


だが、現実は厳しい。
どの大会でも登録は“ディフェンス”。
「試合中はハーフラインより前に出るな」という当時の厳しい決まりごとのもと*2
フィールドの上での時間の大半を、自軍のゴール前で過ごし、
かといって、普通の小学生を試合をしたら
前半だけで3、4点を軽く取ってしまうようなチームの中では、
そんなに緊迫した守備を強いられるわけでもなく、
試合のときはいつも退屈だった。


冷静に考えれば、ドリブルのできないウイングなんて、
存在価値ゼロ、と言っても過言ではないのであって、
当時のコーチの選択はいたって妥当なものだったのだが、
自分としてはもちろん不満だった。


“見せ場”がなかったわけではない。


小5の秋くらいから、同学年のサッカーエリートたちが、
地区選抜チームへとステップアップしてくれたおかげで*3
いくつかの大会では、ようやく“前の方”で試合に出られるようになった。


壁に向かってボールを蹴り続けた成果もあったのか、
最初の小さな大会でいきなり得点王*4


当時、大手新聞社が地元の少年スポーツを取り上げたタブロイド紙を月一くらいで
発行していたのだが*5
“小さなトロフィーを持った大きな選手”の写真がなぜか紙面を飾っていた*6


下手な選手に対するお決まりの形容詞、
“荒削りだが将来が楽しみ”という記者のリップサービスのせいで、
しばらく冷やかしを受け続けることになったわけだが、
当の本人は、当時のサッカー少年たちの聖地、“よみうりランド”のサッカーグランドに
立つ日が近づいたかと、勝手に思い違いをしていたのも事実で*7
ある意味、スポーツをやる者としては、一番幸せな時期だったのかもしれない。


残念ながら、当時の選抜チームには、
後に高校選手権で国立を沸かせ、そのままプロに進んだような選手が
何人か名前を連ねていたし、
そこに割って入るには、自分はあまりに下手過ぎた。


だから、12の夏に、ちょっとした怪我を言い訳にクラブを辞めた。


数ヶ月後、地元を離れて私立の中学に進んだこともあって、
学校の中でサッカーを続ける道は事実上絶たれた。


もちろん、入学当初は激しく勧誘されたが*8
狭いグランド、
しかも他の運動部と代わる代わるグランドの半分を使って練習するという環境*9
都大会の予選で何年も白星を挙げていない戦績、
そのくせ、始まりだけは早い朝練*10
何一つ魅力的なものはなかった。


クラブ時代のコーチが気を遣って、
学校帰りに寄れる某実業団のジュニアチームのセレクションを
受ける段取りをつけてくれたりもしたが、
受けにいったその日に、基礎的なテクニックのレベルの差に唖然として、
逃げるようにして帰ってきてしまった*11


そして、代わりに始めた陸上も、
元々練習さぼりがちだった上に、
今度はホントに膝を痛めてしまったこともあって長続きせず、
その後長らく不健康な日々を送り続けている、というのは見てのとおり・・・(苦笑)。


そんなふうに“健全な学校スポーツ”の世界に背を向けて、
あり余るエネルギーを陰鬱な影の中で発散せざるを得なかった自分にとって、
華やかな高校サッカーはもちろん、
閑古鳥のなく実業団リーグも、どこの世界の話だか分からないサッカーの祭典も、
当時は、同じように観たくない存在、だったのは言うまでもあるまい*12



・・・・・・・・・・・・・・・・・・

そんな自分がサッカーを再び観るようになったのは、
10年以上前の些細な出来事がきっかけなのであるが、
ちょっと前振りが長くなりすぎたので(これが前振りかよ!という突っ込みはなしで。)、
とりあえず続きは3位決定戦を見てから書くことにしたい。

*1:残念ながらその後の20年近い歳月の中で、自分の背はわずか3センチしか伸びていない・・・。

*2:オフサイドトラップを仕掛けるためにラインを高く上げる、などという戦術は、当時の小学生にとっては漫画の中の話でしかなかった。

*3:当時、全日本少年サッカー選手権だけは地区選抜チームで臨む、というのが地元の方針で、それゆえ小さな大会に出場するときの学区単独チームの編成は一種の“Bチーム”扱いだった。

*4:確か「最多ゴール賞」とかいう名前だったと記憶しているが、小さなトロフィーを“もえないゴミの日”に捨てられてしまった今となっては、正しい記憶を呼び戻すのは不可能に近い・・・。

*5:今でもあるかは知らない。

*6:ちなみに、自分が写真付きで新聞に載ったのは、このときと学生時代に学生新聞の一面を飾った(笑)ときの2回しかない。

*7:チーム自体はその大会の常連だったので、あとは自分が選抜チームに入れるかどうか、それだけの話だったのだが、そこには永久に超えられない壁があったのだった・・・。

*8:っていうか、明らかに体格が“1年生”のそれではなかったせいで、ほとんどすべての運動部から勧誘されたのは言うまでもない。

*9:クラブ時代は、その年代の公式戦には十分耐えうる規格のグランドで、かつナイター証明付き(!)という恵まれすぎた環境だったために、ギャップは激しかった。よく考えれば、東京の学校なら当たり前の環境だったのであるが・・・。

*10:朝から練習するのには元々慣れていたのだが、片道2時間以上の通学時間では朝7時にグランドに出て来い、と言われてもねぇ・・・と言うのが当時の偽らざる感情だったわけで。

*11:そもそも合格したとしても、親がスクール費用を払ってくれる素振りすら見せてくれていなかったので・・・。

*12:昔っから“観るスポーツ”でしかなかった野球(あと相撲も、か(笑))だけはなぜか例外的によく観ていたのだが・・・。

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