明けない夜はないと知ってはいても。

今月、日経朝刊の「私の履歴書」に登場されているのが、日本製鉄の三村明夫名誉会長。

我が国有数の名門企業でキャリアを積まれた方、というだけあって、特に社会人になられてからのエピソードは”大企業あるある”満載。

もちろん、時代としては自分が経験したそれよりも更に30年以上前のエピソードだから、多少”昭和のドラマ感”はあるのだが、それでも「こういうこともあったよな・・・」という話が所々で出てくると、朝から何となく得した気分になる。

そんな中、今週火曜日の回で書かれたエピソードは、なかなか衝撃だった。

以下、少し長くなるが引用。ハーバードビジネススクールへの留学を終えて帰国した直後の話である。

「こうして東京に帰任したのが1972年7月。ポストは輸出第一部の輸出調整課掛長だった。ここで思いがけないことが起こる。課長にあいさつに行くと、「人事が君を引き取れというから引き取った。だが私としては欲しくなかった」と面と向かって言われた。意味が分からず戸惑ったが、課長の言葉に噓はなかった。私は本当に何の仕事も与えられず、30代前半の若さでいわゆる「窓際族」のような境遇に追いやられたのだ。
暇潰しにしょっちゅう散歩したのが皇居前の広場だ。当時の新日鉄本社は東京駅北側の呉服橋にあり、皇居まで歩いて10分もかからない。天気のいい日にふらふら歩いていると、観光客に交じって私と同類らしき人もいる。「自分はこのままでいいのか」という焦燥がこみ上げた。
日本経済新聞2024年4月9日付朝刊・第44面、強調筆者)

そうでなくても昔の話。ましてや、既に功成り名を遂げ頂点を極めた方が振り返って書く話だから、多少の逆バイアスがかかっていても不思議ではない。

だが、それを差し引いても、「あるある」だな・・・と思ったのは決して自分だけではないはず。

さすがに自分はここまでストレートに「欲しくなかった」と言われたことはない。だが、大きな組織であればあるほど、人を動かす側と動く側、そして受け入れる側の距離は遠くなる。

動かした側は、相思相愛のマッチングをしたつもりでも、それぞれのイメージとか、その職場で求められるスキルと動いた者のスキルが微妙にズレていれば、それは即座にミスマッチに変わる。同じ会社の中、同じようなカテゴリーで仕事をしていても、異動した先の半分以上は知らない人、というのが大企業の常だし、ましてや畑違いの部門への異動だったり、しばらく離れた後の戻り異動だったりすると、イメージと現実のズレは大きい・・・。

ということで、皇居の周りでも散歩しないとやってられない*1、という状態に陥ったことは自分にもあったのだった。

私の履歴書」に話を戻すと、三村掛長(当時)は、思い悩んで人材リサーチ会社の門を叩き転職を相談する。そしてそこでのやり取りを経て会社に残ることを決めた、それが「人生の岐路」だった、という回顧の後に、最後に記された一文がこれだ。

「今から振り返っても、課長がなぜあれほど冷たく私に接したのかは分からない。皇居前広場の切なさを打ち明けるのも、これが人生で初めてのことだ。」(同上)

人生、明けない夜はない。

三村氏のその後のご活躍は改めて強調するまでもないことだし、自分も(よりスケールの小さい世界ではあるが)出だしがあまりフィットしなかった職場ほど、数か月経った頃になって急に大きい仕事が舞い込み始め、何年か経った頃にはジャストフィットする、という経験を何度も味わっている。

だから、短い「夜」の話を強調しすぎるのは、いささかバランスを失するのだけれど、ただそれでも、何かの弾みにちょっとだけ胸をよぎるのが夜の記憶だったりもするわけで・・・。


昔のことはすぐ忘れる。今が忙しいと、もう何十年もこんな感じだったかと勝手に錯覚してしまったりもする。

だが順風満帆に思えるときこそ、立ち止まって謙虚に振り返る気持ちは必要。そして、そこで記憶を巻き戻せる束の間の「夜」があるかどうかがその先の人生の厚みにもつながるんじゃないかな、と思うだけに、今となっては20年前の記憶にも感謝したい、そんな気持ちで過ぎる4月を眺めている。

*1:といっても、現実には皇居は遠かったので、周りのビル街の喫茶店で時間をつぶすくらいのことしかできなかったわけだが・・・。

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