目的か手段か〜「戦時加算」をめぐる問題

日経紙の月曜法務面(「法務インサイド」)で、「戦時加算制度」なんていうマニアック(笑)な制度が紹介されている。


・・・といっても、記事が焦点を当てているのは、制度そのもの、というよりは、あくまで著作権者団体による「保護期間延長論」の主張との絡み。

著作権の保護期間延長の論議に、戦争の勝敗に基づく不可解な問題が浮上してきた。第二次大戦時の連合国側の著作物の保護期間を日本が約10年長く課された「戦時加算」の解消問題だ。提案している著作権側には同問題の解消をテコに、期間延長を実現したい思惑がありそうだ。」(日本経済新聞2008年6月23日付朝刊・第16面)


自分が以前、はじめてこの種の「保護期間の延長と戦時加算問題をリンクさせる議論」を耳にしたときは、一体何を言い出したのだろう?といぶかしく思ったものだ。


このコラムでは、

シュトラウス事件」などを契機に国内の著作権管理団体が、戦時加算の問題を意識し始めるようになる。
   ↓
JASRACなどが、問題解消に向けた政治活動を始める。
   ↓
(そのかいあってか)著作権管理団体の国際組織「CISAC」が、昨年6月の総会で、「日本が著作権の保護期間を70年に延長する」ことを前提に、「戦時加算の権利を行使しないよう、著作権者に要請する」ことを決議。
   ↓
“戦時加算解消問題と保護期間延長問題のパッケージ型解決”を著作権者団体がアピールし始める。

とこれまでのストーリーがわかり易くまとめられているのだが、戦後の時間の経過により早かれ遅かれいずれは解消する「戦時加算」問題と、いったん延ばせば半永久的に影響をもたらす著作権保護期間の延長の問題を、同じ土俵で論じるのはどうかと思うし、そもそも「10年」程度の戦時加算と「20年」の保護期間延長とでは、計算的にも釣りあわない。


それに、少なくとも現時点では、我が国で生まれた著作物よりも欧米で生まれた著作物の方が圧倒的に経済的価値を有している、というのが真実のようだから*1、今、保護期間を20年延長したところで、外国の権利者をより利するだけ、ということになってしまうのは疑いないところで、純粋に「戦時加算」問題の解決を目指そうとして保護期間延長論に飛びついたのであれば、それはあまりにセンスがない、と言わざるを得ない。


ゆえに、自分の中では、「戦時加算の解消」というのは単なる手段に過ぎず、最終目的である「保護期間延長」のために、著作権者側が編み出した単なるこじ付け論法、と解釈しているし、上記の記事も、全体の雰囲気としてはそれに近いものがあるように思われる(冒頭のリード文の中の「思惑」というキーワードが象徴的だ)。



さすがに、記事の中では、著作権者の顔も立てないといけない、ということで、

「延長派が戦時加算解消を延長論議に結びつけ始めたのは、権利者以外への経済的利益を意識しているのかもしれない。」

著作権延長問題だけでなく他の政策を合わせ、経済的な損得を考える姿勢は大切」(金正勲・慶応大准教授の発言として)

というフォローっぽいコメントも入っているのだが、フォローしようとすればするほど、権利者側の理屈の底の浅さを見せ付けられるような気が・・・。



あたかも「目的」であるかのように見せかけられた特定の政策目標が、実はそれは単なる「手段」だったというのは、高尚な政治の世界(苦笑)では良くある話で、そんな“裏”をわかり易く教えてくれる教材だと思えば意味があるのかもしれないが、やっぱり見れば見るほど、何だかなぁ・・・と思わされる話である。

*1:記事では、「コンテンツ類の05年の貿易」が4億5000万ドル近い入超であった、というデータが紹介されている。

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