「審判」の意味。

“審判”問題が、今回の五輪の前半戦の象徴的な出来事の一つになりつつある。

まず、口火を切ったのが、“クルクル変わる柔道の判定”問題。

競技初日、男子60キロ級の決勝戦で、平岡選手に対する「技あり」判定が「一本」に修正されたり、3位決定戦で勝者が決まった直後に、あわや判定変更?と思うような審議があったり、というところから始まり、2日目の男子66キロ級、海老沼選手と韓国選手の試合で旗判定が180度ひっくり返った一件で、一気に盛り上がりを見せるようになってしまった。

北京五輪後にかなり大きなルール改正があったようで*1、審判委員が映像を確認して判定の正誤を確認する、というシステムもそのタイミングで導入されたようだから、恐らくこれまでの世界選手権等でも、問題となるような事例は存在したのだろう。

だが、五輪の場合、そもそもの注目度が格段に違う上に、導入後もなかなかなかったと思われる「旗判定ひっくり返し」という前代未聞の事態が発生してしまったことが、「畳の上の審判と審判委員(ジュリー)の複雑な関係」等々、話題を呼び醒ますことになってしまった。


そして、2つ目は、何と言っても体操男子団体、日本チームの最終種目・あん馬の最終演技者だった内村航平選手のスコアをめぐる「再審」問題である。

演技中に、日本と同じローテーションで演技を続けていた別組の地元イギリス選手に向けた大声援が会場を包んだ影響もあったのか、内村選手のあん馬の演技は乱れっぱなし。“美しい体操”とは程遠いおっかなびっくりの演技で、何とかフィニッシュまで持って行こうとしたものの、最後は耐え切れず、バランスを失って「落下」した、というのが、素人目での見立てで、それゆえ、「13.466点」という内村選手にしては信じられないようなスコア(そして4位というこの時点での最終順位)も、視聴者的には納得していた*2

しかし、その後、森泉コーチが敢然と異議申し立てに向かい、長い審議の末、上級審判員の再審で「降り技」の加点が認められたことで、いったん場内に発表された順位は大きく逆転。

地元イギリスは銀メダルを逃し、ウクライナに至っては手中に収めかけていたメダルを逃す、という悲惨な結果になってしまった。

「陸上の100メートルは100メートル。でも、体操だと95メートルか105メートルになることもある」(日本経済新聞2012年7月31日付け夕刊・第13面)

という、皮肉交じりのウクライナチームのコーチの言が、本件の「再審」の危うさを如実に表わしている、といえるだろう。

柔道と同じく、体操の採点をめぐって技の難度を示すDスコアについて異議申し立てを行うこと自体は、正規の手続きとして定められているようだが、こちらも、これまで五輪では、実際に申し立ててメダルの色が変わった、という事例がなかったために、大きな話題となってしまったのである。


さて、この辺りの問題をどのように評価すべきなのか。

柔道に関しては、元々、篠原・現全日本監督がシドニーで疑惑の技判定で敗れて物議をかもした、といったところに端を発したルール改正のようで、「映像」という客観的な証拠に則り、日本人選手が泣かされてきた“疑義ある判定”が払拭されることになるわけだから、個人的にはそんなに批判されるようなことではないと思う*3

また、体操の採点に対する異議申し立てのシステムなどは、一種の「査定系審判」を彷彿させるもので、これまた手続きとしては、良く担保された制度といえるだろう(もちろん、段階を踏めば、常に正しい答えになるとは限らないわけで、それは現実の訴訟や審判でも同じことなのだが・・・)*4


どんな高名な審判であっても、人である限り、判断に誤りはある。
それが良く分かっている人、特に、司法の世界で生きている人間なら、そういう前提の下で、誤ったジャッジがなされることを前提に、それが是正される手段を二重、三重にシステムに取り込んでおく、というのは見慣れた光景だし、さほど違和感もないのでは?と思う。

それにもかかわらず、日本国内で柔道の判定変更への批判が絶えないのは、日本人の多くがスポーツを「教育」の文脈で受容していて、「審判の判定は絶対的、終局的なもの」という意識が根付いているから、なのか*5、それとも、一度下った判定が、“後ろ側のヒソヒソ”でひっくり返る、という不透明さへの嫌悪感ゆえなのか・・・。

もしかしたら、明らかにおかしい判定であればともかく、見た目はスッキリと付いた決着を蒸し返すことへの違和感も根底には存在しているのかもしれない*6

内村選手のスコア変更については、日本国内よりも海外の方でむしろ盛り上がったようだから、一概に「日本人のマインド」として説明すべきものでもないのかもしれないが、それでも、良い判定でも悪い判定でも、「審判の判定」を所与のものとして受け入れるところから話が始まる(そして、それが後で変わったり、争われたりするのは“異常”なことだ、とする)というマインドが、この国の人々の中にはどうしてもあるような気がする。

単なるスポーツの場面だけでなく、司法手続きに対する見方にも影響していそうなこの国の空気が、もどかしくもあり、何となく愛しくもあり・・・というのが、今の自分の率直な思いである。

*1:「効果」ポイントも廃止され、そのため、今大会ではやたら延長戦に突入する長い試合が増えているように思う。

*2:団体戦は予選も決勝も、エース内村、山室、田中兄といった本来エース格の選手たちに、冴えが見られなかった。それに、跳馬で山室選手が負傷して、田中選手が急遽あん馬の出場を余儀なくされるなど、運にも見放されていた。

*3:個々の技の良しあしではなく、全体の印象で判断を下すべき「旗判定」の場面にまで審判委員が介入した、となると、かなり異質な感も受けるが、結果的にはあの“逆転”裁決に間違いはないと思われ、これも一つの誤りの是正例として評価されるべきものではないかと思う。

*4:いったん再審が受け入れられた後は、同じ理由で他の者が異議申し立てをすることができない、という、ひっくり返された側には一件気の毒なルールもあるが、迅速な解決を図る必要があるゆえの割り切り、であり、やむを得ないというべきだろう。さすがに今回のような微妙なケースになってくると、一応、利害関係者全員の意見を聞いた方が良いのかなぁ・・・とも思ったりはするが。

*5:自分も競技は違うが、子どもの頃に「審判への抗議は絶対NG」と叩きこまれて育った側の人間である。ある程度年代が上がれば、また意識は変わってくるのかもしれないが、多くの人はそこまで続けずに“観戦者”に回るので、昔の意識はそのまま残る。

*6:確かに柔道で過去金メダルを取った日本人選手の中にも、何人か“エアー一本”で勝って、後でそれをネタにされている選手はいたような気がする。ただ、それを言ったら篠原対ドゥイエの試合も、素人目にはドゥイエがすっきりと投げ技を決めたように見えたわけだし、そもそもビデオ判定を導入した“立法事実“自体が揺らいでしまうことになる。

google-site-verification: google1520a0cd8d7ac6e8.html