「最高裁判決法廷意見の分析」(第9回)

最一小判平成18年6月23日*1

小泉首相靖国参拝をめぐる一連の訴訟で、
初めての最高裁判決として注目を集めた事件。


靖国問題をめぐる議論については、
以前にも言及した記憶があるが、
戦死者を“英霊”として祀り上げることの是非はともかく、
一般市民が、この問題を法廷で「政教分離原則」等の問題に置き換えて
争うのは筋が悪すぎる、というのが自分の率直な意見である。


本件の上告申立理由を読むと、
上告人側は、

戦没者靖国神社に祀られているという観念を受け入れるか否かを含め、戦没者をどのように回顧し祭祀するか、しないかに関して(公権力からの圧迫、干渉を受けずに)自ら決定し、行う権利ないし利益」の侵害

という側面を全面的に押し出して勝負を挑んでいるようだが、
多数意見は、

人が神社に参拝する行為自体は、他人の信仰生活等に対して圧迫、干渉を加えるような性質のものではないから、他人が特定の神社に参拝することによって、自己の心情ないし宗教上の感情が害されたとし、不快の念を抱いたとしても、これを被侵害利益として、直ちに損害賠償を求めることはできないと解するのが相当である。上告人らの主張する権利ないし利益も、上記のような心情ないし宗教上の感情と異なるものではないというべきである。このことは、内閣総理大臣の地位にある者が靖国神社を参拝した場合においても異なるものではないから、本件参拝によって上告人らに損害賠償の対象となり得るような法的利益の侵害があったとはいえない。」(1-2頁)(太字筆者)

とあっさり切り捨てている。


こと宗教的行為としての側面から小泉首相の行為を見れば、
それは「神社に参拝する」という行為に過ぎないのであって、
その行為にどのような意義を見出すか、というのは、
宗教的行為としての側面から切り離された後付けの議論に過ぎない。


“戦死者への畏敬の念”を表明した、と理解するか、
軍国主義への回帰”と理解するかは、
それぞれ論じる人々が拠って立つ思想背景の影響によるところが大きいが、
当該行為自体は、「神社に参拝する」という行為に過ぎない以上、
法解釈として本件最高裁判決以上のものを導きだすことは
難しいように思われる。


裁判所はイデオロギー闘争の場ではないし、
政治的パフォーマンスの場でもない。


それを履き違えた“運動論”は、
理性的な支持者の離反を招く危険を常に抱えている、ということは
常に心に留めておくべきことだと自分は思っている。


もっとも、ここに付されている
滝井繁男裁判官(弁護士出身)の補足意見は、
靖国参拝”をめぐる議論に一石を投じうるものに
なるようにも思われる。


憲法20条3項を「国家と宗教の分離を制度的に保障したものに過ぎない」
と理解する点においては、多数意見と変わるところはないにしても、
滝井裁判官は、一歩踏み込んで、
法的保護の対象をより広く捉えているように思われ、
以下の説示にはそのあたりの考え方が端的に現れている。

「私は、例えば緊密な生活を共に過ごした人への敬慕の念から、その人の意思を尊重したり、その人の霊をどのように祀るかについて各人の抱く感情などは法的に保護されるべき利益となり得るものであると考える。したがって、何人も公権力が自己の信じる宗教によって静謐な環境の下で特別の関係のある故人の霊を追悼することを妨げたり、その意に反して別の宗旨で故人を追悼することを拒否することができるのであって、それが行われたとすれば、強制を伴うものでなくても法的保護を求め得るものと考える。」
「そして、このような宗教的感情は平均人の感受性によって認容を迫られるものではなく、国及びその機関の行為によってそれが侵害されたときには、その被害について損害賠償を請求し得るものと考える。」
(4頁)


本来、上記のような説示がもっともあてはまると思われる
自衛隊合祀訴訟」(最大判昭和63年6月1日)では、
殉職した自衛官である夫を追慕していた妻(クリスチャン)の訴えが
棄却されているのだが、
これは、合祀申請を私人たる「県隊友会」の単独行為、とした
事実認定の影響を少なからず受けているものであり*2
追悼する側の“宗教的感情”そのものが否定された
というわけではない。


本件の原告が祭祀されている戦死者とどのような関係に立つ人々なのか、
報道等による限り明らかではないが、
仮に全く無関係な人々だったとしたら、
滝井裁判官のような考え方に立ったとしても、
個々の原告に保護に値する利益があるかどうかは疑わしい
といわざるを得ず*3
多数意見と同じ結論に至ることになるのもやむを得ない、
といえるだろう。


だが、この問題を靖国に祭祀されている遺族の立場から捉えた時、
果たして、同じような結論に至るだろうか?


靖国神社自体も、公的機関ではないから、
自衛隊合祀訴訟」と同様の結論に至る可能性は高い*4のだが、
それでも、一般市民や文化人が訴えを提起するよりは、
より切実な問題として、「信教の自由&政教分離原則」の争点が
浮かび上がってくることだろう。


たぶん、あと1ヶ月もすれば、
“政治の季節”“隣国外交”の駆け引き材料として
靖国”問題が再燃してくるはず。
だが、そこで忘れてはならないのは、
声を上げる術を持たず、あったとしても通常はそれが許されない、
戦死者の遺族たちの存在・・・。


遺族たちが声をあげ、
裁判所に合祀の是非を問うた時、
本当の意味で、“靖国問題”が法的問題になりうるのだと思う。


果たしてそんな時が来るのかどうか、
今は想像も付かないのであるが・・・。

*1:H17(受)第2184号・靖国参拝違憲確認等請求事件

*2:その結果、私人側の「信教の自由」を過度に尊重し、原告側に「寛容」を要請する奇妙な判決が導かれた。笹川則勝「信教の自由・政教分離の原則と自衛官の合祀」別冊ジュリスト130号94-95頁(1994年)など参照。

*3:現に、滝井裁判官の補足意見でも「上告人らは本訴においてそのような個別的利益を主張しているものではない」とされている。

*4:少なくとも、首相の参拝が「公的参拝」にあたり、靖国参拝という行為が国家的関与の下になされている、という前提に立たなければ大法廷判決のトラップを乗り越えるのは困難であろう。