前編(http://d.hatena.ne.jp/FJneo1994/20110414/1302933056)に続き、今回の原発事故に伴う原賠法に基づく賠償をめぐる課題について、引き続き考えてみることにする。
誰が「賠償額」を決めるのか?
原発の事故から1ヶ月が経過したこの時点で、「原子力損害賠償紛争審査会」が立ちあがり、この15日に第1回の会合が開かれている。
既に数日前のエントリーで紹介したとおり*1、「紛争審査会」は、その名が示すような「紛争調停」の機能だけではなく、JCO臨界事故の際に「原子力損害調査研究会」が担っていた「賠償指針の策定」という機能も担う機関として位置付けられた機関であり、能見善久・学習院大学教授、というこの難題に挑むには最適と思われる民法(不法行為法)学界の第一人者が会長に選任されたことで、審査会の示す結論も、(少なくとも司法界には)重みを持って、受け止められることになるだろう。
だが、気になったのは、この紛争審査会第1回会合前に出てきていた次のようなニュース。
「海江田万里経済産業相は12日の閣議後の記者会見で、原発事故で避難や屋内退避を迫られた人への仮払金について「できるだけ早くと思っている」と述べた。」
「1世帯あたり100万円で、総額は約500億円にのぼる見通しだ」
「海江田経産相は「着のみ着のままで逃げた人がたくさんいる」として、仮払金について「(経済被害対応本部の)第1回会合で特に異論がなければそこで決定し、東京電力に通知する」と述べた。」(日本経済新聞2011年4月13日付朝刊・第5面)
確かに、避難生活を強いられている地元の人々に対して、早急に何らかの経済支援をすることが必要なのは間違いないところだし、足元から揺らいでいる現政権が“政治主導”での対応をアピールしたい、という気持ちもわかる。
しかし、前編のエントリーでも説明したように、今回の原発事故で一義的な賠償責任を負うのは、あくまで原子力事業者である東京電力である。
そして、具体的な賠償手続きは、「紛争審査会」が定める方針に従い、事業者である東京電力が、自らの責任において行う*2というのが本来の筋であるはずだ。
にもかかわらず、なぜ、原子力賠償の所管官庁でもない経産省の大臣が、頭越しに賠償額を「指示」したり、事業者に「通知」したりするのだろうか・・・?
1世帯100万円(単身世帯75万円)という金額は、「家・土地を長期間使用できず、仕事も失った」であろう多くの原発被害者にとって、賠償額としては決して過大な金額とはいえず、後々確定するであろう全体の賠償額に比べれば「一部」弁済という位置づけは十分にできる程度の金額だから*3、後々、精算の手間が生じたり、返還をめぐってトラブルになる懸念は少ないだろう。
ただ、原発事業自体がある種の“国策”と言えるもので、当の事業者自体が、かつて政治権力との蜜月ぶりを揶揄された存在であったとしても、「損害賠償」という個別事情に応じたセンシティブな判断を要する事柄について、政治家の“鶴の一声”で事業者に金を支払わせるのが良いことなのかどうか、自分は大いに疑問を感じている*4
これから地元農家や漁業関係者、中小事業者への補償、といったより政治色が濃い賠償要求の処理が次々と発生することになるだろうが、自分の存在感をアピールしたい政治家が、東電の資産をあたかも「ドラえもんのポケット」のように使うリスクは残るわけで*5、その観点からのチェックもこれからは必要になるだろう*6。
もちろん、「紛争審査会」が早期に賠償範囲の指針をまとめられれば、それにこしたことはないのだが。
原賠法上、事業者の責任に上限はあるのか?
さて、これまで、原発事故をめぐる損害賠償については、事故直後からツイッターで詳細な法制定経緯等が紹介されるなど、ネット上での情報提供や力のある人々の議論が、多くの人が抱いていた素朴な問題点の改善に大いに寄与しているのは間違いない。
中でも、今週出された「企業法務マンサバイバル」のエントリー*7は、問題点が非常にコンパクトにまとめられている上に、tac氏ならではの語り口の軽妙さゆえ、読みやすさでも群を抜いている、と思う。
だが、分かりやすく書こうとされたがゆえ、なのか、若干言葉足らずに思えるところもある。
特に気になったのは、
「原則無過失の無限責任と言いつつ、1,200億円を超えたら国が面倒みてあげるからと定めていることで、実態としては一定限度で制限されている効果を生じます」
「無限の無過失責任を負わせておきながら、結局は1,200億円を上限とする責任制限、保険制度、政府保証によって原子力事業者を守ろうという原子力賠償責任法」
というくだり。
確かに、tac氏が上記エントリーの中で論拠としていると思われる原賠法16条(第1項)は、
「政府は、原子力損害が生じた場合において、原子力事業者(外国原子力船に係る原子力事業者を除く。)が第3条の規定により損害を賠償する責めに任ずべき額が賠償措置額をこえ、かつ、この法律の目的を達成するため必要があると認めるときは、原子力事業者に対し、原子力事業者が損害を賠償するために必要な援助を行なうものとする。」
と、「必要がある」と認められれば「(政府が)必要な援助を行うものとする」ことを定める規定であり、
「原子力事業者としても、この法体系で破産を心配されることは絶対にないと思います」(「座談会・原子力災害補償をめぐって」ジュリスト236号18頁(1961年)井上亮・通産省炭政局長(前原子力局政策課長)発言)
という見方があったのも事実なのだが、一方で、「民間事業者の責任限度を決めるか否か」という激しい議論の中で、
「責任限度を決めない」
という選択がなされた、という事実も厳然と存在する*8。
また、tac氏のエントリーの中では引用されていないが、原賠法16条には、第1項に続いて、
2 前項の援助は、国会の議決により政府に属させられた権限の範囲内において行なうものとする。
という規定(第2項)もあり、国会の議決によって権限を与えられない限り、政府が「1200億円を超える部分」について、当然に原子力事業者を「守れる」ということにはなっていない。
このように、原賠法があくまで「原子力事業者に一義的な責任(無限・無過失責任)を課す」建前を取っている法律である以上、「原子力事業者の責任が制限されている」という評価は、やはりミスリードなのではないだろうか*9。
JCO臨界事故の際に、原子力事業者であるJCOが、保険プールから支払われた10億円という保障措置額を大きく超えて、損害賠償金を支払った、という実績があることも見過ごすことはできないだろう*10。
ちなみに、原賠法の立法に関与した故・我妻栄博士は、16条を評して、
「援助をするといってはいるものの具体的に政府の義務とはされていない。事業者に資力がなく被害者に充分の賠償をすることができなくとも国会が権限を与えなければどうにもならない、ということである」(我妻栄「原子力二法の構想と問題点」ジュリスト236号8頁(1961年))
と述べられている。
我妻博士が中心となって原子力委員会の専門部会の答申を書かれた時には、被害者保護の観点から「政府が直接補償金を交付する」という方向性を目指していたようだし*11、事業者が負うべき責任の限度についても、
「損害額にも制限がないかどうかはさらに一層問題である。法律は、いわゆる青天井の責任として、制限していない。国際条約では制限すべしという主張が強い。企業として許される原子力事業は、いかに無過失責任を負うにしても、その最高額に制限がなければ、企業としての合理的な計画が立たないからである。」
「(無過失責任のいずれの根拠をとるにしても)近代企業としての合理的計画を不能にするものではありえない。この法律のように、そこは国の援助だとすることは、(略)近代企業としての合理性を無視する点で、是認しえないものを含む。」(同上10頁)
というのが我妻博士の持論(というか部会構成員の共通認識)だったようなのだが、既にご紹介のとおり、結論としては、このような精神は原賠法に取り込まれることはなかった。
それゆえ、原子力事業者は、その後半世紀にわたって、「リスク計算不能な青天井の賠償責任を背負ったまま、チキン・レースに挑み続けざるを得なくなってしまっていた」というのが、評価としては妥当なのだと思うし、tac氏が言及されているような、「責任の上限が定められているから安全へのインセンティブが働かなかった」という指摘もあたらないと思う。
仮に、今回賠償主体となる事業者に「安全へのインセンティブ」が働いていなかったのだとすれば、それは、「自力ではコントロールすることができない過大な責任」を負わされ、合理的なリスク計算ができない状況の元で、いつしか「リスク」への感覚が麻痺し、原子力の世界の人々が奏でる“安全神話”だとか、手の届くところに作られた”安全基準”に乗っかる以上に具体的な取り組みをするモチベーションが湧かなかった、というところに、根源的な理由があるように思えてならない*12。
今回の事故が果たして、“手の届かない”リスクだったのか、あるいは、そもそも“万が一の事態が生じたときはコントロール不能な過大な責任を負わされる”ことを承知で、「原発」を自らの事業のうちに抱え込む、という選択をすることが真に正しい選択だったのか、そして、今回の件を踏まえて、これからの原子力政策とそれを担保する法制度をどのように再構築していくのか、ということは、これから十分に時間をかけて検証・検討していかなければならないことだとは思うのだが、議論の出発点を間違えてしまうと、解決に向けての道筋も誤ってしまうだけに、“土俵”の設定は慎重に行われるべき、と思うのである。
(さらに続編に続く)
*1:http://d.hatena.ne.jp/FJneo1994/20110411/1302540318
*2:これは支払を拒絶することによる法的リスク、レピュテーションリスクや、過剰に支払い過ぎたことによる経営責任等もひっくるめて自らの責任で行う、ということを意味する。
*3:もっとも、「精神的損害」を賠償項目として認めなかったJCO臨界事故時の賠償基準が今回も踏襲されることになるとすれば(おそらく今回は精神的被害も賠償範囲に含まれることになると思うのだが・・・)、極めて恵まれた条件を備えた一部の被害者(廉価な代替住居と仕事を事故後すぐに確保できたような被害者)にとっては、過大な賠償額となる可能性がないとはいえない。
*4:緊急に避難者への一時的支援が必要だというのであれば、原賠法上の賠償とは別枠で、緊急の暫定立法を経て、見舞金の支給なり、緊急貸付なり、という手立てを講じるようにした方が、後々の混乱は回避できたのではないかと思う。
*5:しかもそのポケットの中身は無尽蔵ではないため、不用意に引き出し続けた結果、本来賠償されるべき被害者への賠償がいきわたらなかったり、過剰に国民なりユーザーなりが負担を背負う可能性が出てくることも否めない。
*6:中には、政府が東電に“プレッシャー”をかけることを推奨するかのような意見を述べられる方もいるようだが、一面的な報道に引っ張られる形での事業者に対する過度の干渉が、かえって被害者全体の公平を妨げるおそれがあることにも、目を向けねばならないと思う。
*7:http://blog.livedoor.jp/businesslaw/archives/52140077.html
*8:この点につき、竹内昭夫東京大学助教授(当時)は、「このような形(筆者注:国が当然の義務として保険で填補されない場合に補償する、という西ドイツ型の法制度)は国の財政能力からみて困難だという政府部内の強い意見が出たため、それとの妥協・調整の結果まとめられたのが、保険のあなについては補償契約によって填補するが、損害賠償措置額を超える損害については「援助」するという、現行法の構想であった。従って、立法経過からみる限り「援助」は「補償」からの後退を意味するはずであって、決して被害者と原子力産業保護への前進を示すものではない」と述べられている。(竹内昭夫「原子力損害二法の概要」ジュリスト226号35頁)
*9:この点については、tnihei氏が既にTwitter上で指摘されているとおりである。また、ついでに言うと、第16条2項で国会に権限が与えられたとしても、政府が行うのはあくまで「原子力事業者への援助」であって、政府が被害者に対する直接の賠償の責めを負うわけではない。その意味で、被害者に対する“賠償”責任を負う主体は原子力事業者以外にはありえないのであって、政府が必要な援助をしてくれないからといって、原子力事業者が被害者への賠償を怠れば、それは明確に「違法」のそしりを免れ得ないのではないかと思う。
*10:この事故については、「マニュアル無視」という事業者側の落ち度があまりに大きかったことが指摘されているし、全体の損害額が親会社の援助により賄える程度だった、という点は大きかったのだが、零細な原子力事業者に過ぎなかったJCOが、政府の援助を受けることなく賠償金を支払った、という事実は実績としては大きいだろうと思う。
*11:我妻博士は、「賠償原資を事業者が出すか国が出すか」(これは制度上の効率性から決められるべきもの)という問題と、「被害者保護の要否」を混同してはならない(事業者が賠償金を負担する、という帰結ゆえに、被害者が賠償を受けられないような事態が生じ得るような制度になってしまうのはおかしい)という趣旨の主張もされている。前掲ジュリスト9頁。