原賠法をめぐる議論の混乱を憂う(上)

先月の終わり頃、「原賠法をめぐる議論を有益なものとするために。」というタイトルで軽く記事を書いていたのだが*1、それから2週間ちょっと経った今になっても、議論は落ち着くどころか、余計に混迷を深めているように思えてならない。

自分自身、震災後間もない時期から、この「原子力損害の賠償に関する法律」(原賠法)について、いろいろと検討を重ねてきたところでもあるので、これから先の議論が、(ネット上でだけでも・・・)少しでも実のあるものとなるように、改めて現状の議論の問題点を指摘してみようと思う。

そもそも何で東京電力が賠償しなければならないのか?

おそらく、今回の原発事故をめぐる議論が噛み合わない最大の原因は、なぜ、本件において、「原子力事業者」が事故によって生じた損害の賠償の責めを負わないといけないのか、という点についての理解が未だ世の中に浸透しきっていないことにあるのではないだろうか。

これまでのエントリーでも触れてきたとおり、原賠法に基づく「損害賠償責任」は、

「悪いことをしたから負う」というものではない。

事故を生じさせた原子炉等について許可を受けた者(原子力事業者)であれば、故意があろうがなかろうが、過失があろうがなかろうが、誰しもが負わねばならない、というのが原賠法の「損害賠償責任」なのであって、この点において、一般的に用いられる「損害賠償責任」とは実質を大いに異にする*2

今回の事故が、一部の論者が言うような「リスク管理が甘い電力会社が引き起こした人災」であろうが、「あくまで不可抗力的な災害」により引き起こされたものであろうが、原則として結論は変わらない(「異常に巨大な天災地変」の解釈については後述)。

原賠法のルールに基づく限り、

「悪いことしたんだから、東電に払わせろ」的な安直なツイートに生理的嫌悪感を覚える人

でも、「東電が(原子力事業者として)原発事故により生じた損害の賠償責任を負う」という結論自体は受忍せねばならないのである*3

以上を踏まえれば、それだけでも、議論はだいぶすっきりしたものになるはずだ。

なぜ東京電力は免責されないのか?

既にあちこちで叩かれているように、経団連のトップという立場にある方が、「東電は免責されるべき」的な主張を繰り返し述べられており、政府の方針も世論も*4「東電が一義的な責任を負う」ということでまとまってきたこの時期になっても、原賠法制定に先立つ昭和35年中曽根康弘科学技術庁長官(当時)の国会(科学技術振興対策特別委員会)答弁の中の

「異常に巨大な天災地変」=「関東大震災の三倍以上」

というフレーズまで引っ張り出し、「今回の地震関東大震災の45倍だ!」と述べるなどして、“抵抗”を試みている。

だが、件の中曽根氏の答弁に関して言えば、その翌年の原賠法をめぐる国会審議で既に、「3倍」という数字の“軽さ”を打ち消すような、

「超不可抗力」、「全く想像を絶するような事態」

というフレーズが政府委員(当時の科学技術庁原子力局長)の答弁の中に飛び出しているし、それから30年以上経た平成11年になると、

「民事法でもって律するような状態ではない大変大きな混乱状態」=「異常に巨大な天災地変」

と定義する政府委員(青江・科学技術庁原子力局長(当時))により、

関東大震災の3倍といったふうな状態というのは、これは、それがもし生ずれば大変異常な状態であろうということで一つの例え話として答弁がなされたものというふうに理解をしてございます」

と、あっさり「例え話」に格下げされてしまっている*5

そもそも、中曽根氏が言っている「3倍」にしても、エネルギーの大きさの比較ではなく、原子炉の耐震性能評価に使われる「加速度」の比較での数字だ、ということはあちこちで指摘されているとおりなのだから、“地震の大きさ”でいかに今回の地震が“異常に巨大だ”と言ったところで、その言葉に何ら説得力はない。

立法経緯やこれまでの議論を調べれば簡単にわかることであるにもかかわらず、「経団連会長」という重い看板を背負っている方が、条文の文言と断片的な国会答弁に飛びついて、大衆の総スカンを食うような発言を安易にしてしまう、というのは、いかがなものかな・・・と思うところである。


なお、どうせ主張するなら、今回の大震災の特殊性に鑑み、地震の規模ではなく、「津波被害の大きさ」をもって「異常に巨大な天災地変」と主張した方が、まだ筋が良いといえるだろう。

ただ、地形的な要因から、想像し難いような大津波となってしまった三陸海岸と、件の原発の立地箇所を同様に捉えることはできないだろうし、そもそも、立法者の本音が、

「いかに無過失責任を負わせるにしても、人類の予想していないような大きなものが生じたときには責任がないといっておかなくちゃ、つじつまが合わないじゃないか」(昭和36年4月26日・衆議院科学技術振興対策特別委員会における我妻栄博士の参考人としての答弁)

というところにあったのだとすれば、地球の歴史上“前例”があるジャンルの災害であれば、原賠法3条1項但書による事業者免責の余地はない、ということになっても不思議ではない*6

「それじゃあ、原子力事業者は、合理的なリスク計算をすることが不可能ではないか!」

という批判は、事故直後からあったし、至極まっとうな指摘だと自分も思う。

だが、新エネルギー源の導入にあたり、本来内包していたリスクに目をつぶって、必要以上に「安全」を強調せざるを得なかった人々と、「被害者の絶対的な救済」をテーゼにしていた勢力とが辛うじて妥協した結果が、今の原子力損害賠償法制である以上*7、法を適用した結果が極限的なものになることも、(少なくとも原子力事業者は)甘受しなければならないのではなかろうか。

(以下、続編に続く)

*1:http://d.hatena.ne.jp/FJneo1994/20110328/1301248895

*2:民法不法行為規定にも「無過失責任」と呼ばれるものはあるが(例えば土地工作物責任等)、そういうものであっても、損害賠償の問題が生じるのは、事故が何らかの「欠けた部分」(工作物責任で言えば、設置・管理上の「瑕疵」)に起因するからこそ、である。これに対し、原賠法は、設備の構造や管理に何ら瑕疵等がなくても(地震や風水害といった「不可抗力」の場合はもちろん、“ゴルゴ13”級の射撃手が、通常予測しえないような距離からロケット弾を原子炉に命中させたような場合であっても)、「原子力事業者」が一義的に責任を負わねばならない(もちろんこの場合第三者の故意が介在しているから、射撃手に対して原子力事業者が求償することは理論上は可能である。)、という点で、民法上の「無過失責任」とも異質な「責任」を定めているといえる。

*3:今回の事故に、東電の「過失」がどの程度寄与しているかは、今後、起きるであろう東電の株主による株主代表訴訟や行政上の処分、はたまた刑事責任(?)の追及場面で初めて問題になることであって、原賠法に基づく被災者への損害賠償の場面では問題とはなりえない。

*4:原発事故直後は、東電が責任を負う、ということに異を唱える意見も結構見受けられたのだが、さすがに最近では露骨に主張する人は減ってきたように思う。

*5:平成11年3月16日、衆議院科学技術委員会での答弁。

*6:原賠法3条1項但書が適用される場合の同法17条に関する従来の政府見解も、「異常に巨大な天災地変」を極めて狭く解釈する方向に作用する。この点については続編で。

*7:原子力エネルギーの活用に際してのリスクとリターンの認識を国民が共有化できない状況で、原子力発電所の商業使用が見切り発車でスタートし、その状態のままここまで来てしまっている以上・・・。

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