「変」なのは、社説か、制度か、それとも・・・

「貸与制」切り替え目前になって、急遽「給費制」存続の話が浮上する、というアンビリーバブルな状況*1を受けて、「司法制度改革」にご執心の日経紙が、いかにも、といった感のある社説を掲載している*2


「司法修習の給費継続は変だ」という、あまりにストレート過ぎるタイトルと、ステレオタイプな印象を受けるその内容ゆえ、法曹関係者の世界ではこの社説に対する批判が早速飛び交っているようだ。


だが、本当にこの社説は「変」なのだろうか?


確かに、

「社会的にも経済的にも恵まれた法曹」

という紋切り型の表現が、今の時代においても通用するかどうかはちょっと疑問があるし(特に「経済的にも・・・」というのは、これから世に出る多くの法曹にはもはや当てはまらないのは事実だろうと思う)、最後に“持論”の「合格者大幅増加」論を持ってくるあたりに、強引な印象があることは否めない。


しかし、少なくとも、

今、日弁連が依拠している、「経済的に余裕のある人しか法曹を目指せなくなる」という主張だけでは、給費制の継続に国民の理解を得ることはできない

という趣旨の指摘は、至極もっともだと思うし、この点にいかに噛みついたところで、業界関係者以外の多くの人々には、ただの“業界エゴ”としか受け止められないだろう。


もちろん、無給で生活費を“貸与”される身分で修習に臨むよりは、お給料を貰いながら修習に臨んだ方が、修習生にとっては良いに決まっている。


だが、ここで議論されるべき問題は、国家財政が年々厳しい状況に追い込まれて行く中で、「法曹資格を目指す者だけ」に、月々20万円以上の国費を投じる価値があるか、ということなのであって、本来は「経済的に余裕がある人しか・・・」という情緒的な議論だけで「給費制維持」に持っていけるほど簡単な話ではないはずだ。


「経済的に余裕のある人しか○○を目指せなくなる」というフレーズは、今回に限らず、過去、教育分野で制度に手をつけようという動きが出てきたときには、必ずといってよいほど持ち出されてきたものであるから*3、今回の日弁連だけを批判するのはちょっと気の毒な気もするのだが、“外側の目”で見ると、やっぱりセンスがない抗議の仕方だなぁ・・・と思う*4

*1:http://d.hatena.ne.jp/FJneo1994/20100914/1284861617参照。

*2:日本経済新聞2010年9月17日付朝刊・第2面。

*3:これは、かつて国立大学の学費値上げの話が出てくるたびに、自治会等が抗議運動の中で使っていた典型的なフレーズだし、かつて国立大学の文系・理系学部の学費に差をつけよう、という話が出てきた時に、理系学部系の人々から唱えられたフレーズでもあった。

*4:そもそも、今の2〜3年の法科大学院課程を経ないと試験への挑戦権さえ与えられないシステムの下では、真に「経済的余裕がない」人々が法曹を目指すモチベーションは著しく損なわれている(これは司法修習を貸与制にするかどうか以前の問題)のであって、「1年」の司法修習が給費制だろうが貸与制になろうが、「経済的余裕がない」人々の法曹を目指すモチベーションに大きな変化が生まれるとは思えない(もっと言えば、古い試験の下でも、仕送りもなくバイトでその日暮らしの生活をしていて期末試験の教科書すら満足に買えないような学生に、法曹を目指すモチベーションがどれだけあったのか・・・大いに疑問がある(少なくとも自分にはなかった))。それに、試験にすんなりと受かる能力がある、ということが証明できていれば、修習を終えていようがいまいが、“働き場”を確保することは可能なのだから(ヘタに弁護士登録している人間より、企業や官公庁、NPO法人等にとってはむしろ雇いやすい、ともいえる)、修習に入る前に自分の力で「経済的余裕」を作ることだって十分可能なはずで、現に旧試験の時代から、合格後すぐには修習に行かずに働いていた人は一定数いた(もちろん、皆が経済的理由だけでそういう行動をとっていたわけではないだろうが)。

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