何が何だかよく分からないまま、噂ばかりが飛び交う“島田紳助問題”。
わが世の春を謳歌していた一流芸人兼プロデューサーが、「反社会的勢力」と目される暴力団関係者と密接な関係にあった、という事実が世の中に与えたインパクトは大きかったようで、例の会見の翌日には、某有名コメンテーターの番組での発言が“暴力団擁護”として、ボコボコに叩かれる、なんて事件も起きてしまった。
「皆さんの周辺にも(闇社会の人間が)問題を解決してくれることもあるはずだ」
という件のコメンテーターの発言に、
「ねーよ」
というツイートが飛び交う状況は、それはそれで面白かったのだが、冷静に考えると、何で皆そんなに「ない!」と言い切れるんだろう・・・という疑問も湧いてくる。
当のコメンテーター氏自身が翌日の番組でフォローしたように、“反社会的勢力”だとか“闇社会の人間”と呼ばれる人々が、いつもそうと分かる、目に見えるフラグを立てて行動しているとは限らない。いや、むしろ最近では「暴力団」に所属する者であっても、一見するとそうとは分からない・・・というタイプの人の方が多くなっているんじゃないか、とさえ思う*1。
昔の任侠映画のように、いかにもそれと分かるいかつい風貌、身なりで、体中に立派な彫り物でも入っていれば、見分けるのは簡単だろう。だけど、そうでない人が自らの身分を隠して接近してきたときに、それを一瞬で見抜いて関係を断ち切るようなことができるのかどうか・・・。
今はともかく、未来永劫にわたって、「闇社会」の人間と何らかかわりなく人生を過ごせるような自信は、自分には全くない*2。
引退会見を行った彼の場合、明らかに確信犯的に“交際”を継続したのではないか、と思われるような噂が噴出しているし、件のコメンテーター氏にしても、言い直す前の発言には、文脈上叩かれる要素が十分にあったのかもしれない*3。
だが、「反社会的勢力」という言葉が、外延の良く分からないマジックワードであることは、自分があえて説明するまでもないことだし、「暴力団」でさえ、その定義は昔も今もどうにもはっきりしない*4。
それにもかかわらず、治安当局の長年の“イメージ戦略”によって作り上げられた、おどろおどろしい「反社会的勢力」の虚像と、「意図するとしないとにかかわらず、そのような勢力と接点を持つこと自体が悪」的な観念ばかりが一人歩きしてしまっていることによって、そういう世界とは何ら無縁の普通の市民までもが、ある日突然社会的非難の真っただ中に立たされてしまう・・・
そんな怖さすら今は感じている。
東京都の条例が施行されるような時期になったら、このブログでも何が問題なのか、という点についてまた書こうとは思っているのだけれど、とりあえず今日のところはこの辺で。