こんな時だからこそ平和の尊さをもう一度噛みしめたい。

8月のど真ん中、まだ暑さもピーク、という時期に、画面の向こうから流れてくるアナウンスに合わせて戦没者追悼の黙祷をする。これが、自分が物心ついたときから変わらない終戦記念日の光景。

ただ、今年は、それが未だ続いている世界戦争の真っただ中にめぐってきた、というところがいつもと違う。

当然ながら、自分も「戦争を知らない世代」の一人だし、物心がついた頃には既に40年くらい経っていて、若者は皆、”平和ボケ”と揶揄される時代でもあったのだが、当時はまだ冷戦の真っただ中。

いつ核ミサイルが飛んでくるかわからない、という恐怖心は常に心の中にあったし、そんなどことない不安感と、無邪気に勧善懲悪を説く一部の少年漫画の影響から、ともすれば好戦的になりがちな少年たちを諫めるかのように、夏休みの課題図書の中には、常に「戦時中」に思いを馳せさせる一冊が混じっていたような気がする。

やがて、ベルリンの壁が崩れ、ソ連邦が崩壊し、「西側世界」が勝利の凱歌を挙げるのを眺めながら、「これで本当に世界は平和になるのかな・・・」なんて思えたのは一瞬のこと。

中東では断続的に戦火が止まず、欧州大陸でもあちこちで民族間の紛争が噴きだし、そうこうしているうちに9・11からテロへの戦い、と、地球上のどこかで繰り返される悲劇を遠目で見るしかない日々が続いた。

そして、これまで遠くの出来事のように思っていた戦禍は、とうとう自分たちの隣の国が当事者として引き起こされるようになり、さらにはもう一つの隣の国が、まさにこの国の至近でこの国の友邦に銃口を突きつけようか、という状況に至っている今、自分はこれまでにない緊張を感じている。

2月から始まった欧州の悲劇が改めて我々に思い知らせてくれたのは、

ひとたび破られた平和は、平和的でない手段を用いない限り、決して取り戻すことはできない。

という冷徹な現実。

だから、リアリズムに徹すれば徹するほど「平和を希求する」という行為それ自体が空しいものに思えてくるのだけれど・・・。


それでも、自分は、77年間、この国が国際紛争の直接当事者にならなかった、ということに、何物にも代えがたい価値があると信じている。

そして、臆病とののしられようが、風見鶏と揶揄されようが、ギリギリまで耐えて外交の力に賭けるのがこの国が生き残る唯一の道だと思うから、「もう100年まで続けるのは無理かもしれない」という思いにさいなまれつつも、今はつかの間の「永遠の平和」の夢を見たい。

こんな時だからこそ。

google-site-verification: google1520a0cd8d7ac6e8.html