日経新聞の生活ファミリー面に、
『結婚契約のススメ』というコラムが掲載されていた*1。
何でも、行政書士の先生方を中心に
「結婚契約推進センター」(横浜市)なるものが
立ち上げられているらしく、
「センターでは行政書士が当事者の夫婦とともに結婚契約書を作成する。1枚5-7条程度で9800円(内容や場合によって別途費用がかかる)。2年ごとに内容を見直すとともに、毎年の結婚記念日には担当した行政書士が「契約を守ってますか」とメールなどで連絡する。」
ということである。
もっとも、ここで「契約」の内容とされているものをよくよく見ると、
「夫が床のモップ掛けと食器洗い、A子さん(注:妻)が洗濯を担当すると決めた。」
「どんなに忙しくても連絡、コミュニケーションを欠かさない」
「パチンコや競馬は年間収支がマイナス一万円まで」
「収入の多寡にかかわらず相手に意見が言える」
といったような
「夫婦間の気持ちの確認や役割分担に関する内容」が多く、
本コラムの筆者自体も、結婚契約の意味は、
法的な実効力よりも「その過程にこそある」ことを認めている。
確かに言わんとすることは分かるのだが、
だとすれば、あえて公正証書にしたり、
法律の専門家を介在させる必要はないではないだろうか。
昔、コワモテで鳴らした上司の家でご馳走になったときに、
冷蔵庫に「パパは酔っ払ってママに迷惑をかけないことを約束します」
という文言に上司の拇印を押した紙が張ってあって、
大爆笑した記憶があるが*2、
いかに“契約”としての体裁を整えていても、
実際に履行強制に馴染まないような内容を連ねただけでは、
上記のような他愛ない約束ごとの延長に過ぎず、
じっくり話合う意義は認めるにしても、
コストをかけてまで第三者に頼むほどの話ではないように思う*3。
また、財産に関する内容を定めたとしても、
それが婚姻中の契約であれば、
民法754条により取消権を行使することができてしまうから*4、
一方が「やーめた」と言えば、それまでの話ということになろう。
ゆえに、夫婦間の契約が意味をなすとすれば、
婚姻前に、財産関係その他の法律上の権利義務に関する契約を
締結する場合、ということになる。
個人的には、自分自身が“万が一”結婚するようなことがあれば、
そういう契約をこせこせ作るのも悪くない、と思っている。
自分自身、徹底した家族別産制のドライな環境下で育ってきた、
というせいもあるが、
それ以上に、
「契約とは信頼の証」
という感覚が強いせいでもある。
世の中では、分厚い契約書は相互不信の証、であるかのように
説かれることが多いし、自分もかつてはそう思っていた。
だが、現実の実務では必ずしもそうではない。
契約締結時に相互に不信感や無理解があれば、
細かい契約条項を詰めることなど不可能なのであって、
結果、契約を断念するか、
さもなければ微妙なところを曖昧にした薄っぺらい契約で
お茶を濁すことになる。
当該プロジェクト等に対する双方の思惑が合致していて、
相互に信頼感があるときの方が、
むしろ分厚い契約書は結びやすいのだ。
ここで取り上げている話も同じである。
世の結婚を控えたカップルたちが、
どこまで先のことまで見通しているかなんて、
筆者の知ったことではないが、
漠然とした将来見通しくらいでは、
契約書の条項になしうるだけの内容を詰めることなど不可能だろう。
不信感に満ちて結婚するカップルはそんなにいないだろうが、
意思形成における瑕疵は、むしろ一般的にあるもの(笑)なのであって、
分厚い契約書が結べるということは、
そのような瑕疵がそんなにはなく、
お互いが思い描いている将来がおおむね一致している、
ということの証になろう。
もちろん、契約締結後の度重なる“事情変更”で、
某教授が説くところの再交渉義務が生じる可能性は否定しないが、
それでも、かつてベースのところで合意していた“証”があれば、
白紙の状態からネコも食わない喧嘩を始めるよりは、
合理的な着地点を見出しやすいのではないだろうか。
というわけで、
現在は抵抗が多いであろう「夫婦間契約」なる慣習も、
いずれ定着して、
「結婚前にハンコを押すのは婚姻届だけではない」
という時代が近いうちに到来するかもしれない。
自分も、“万が一”のことがあれば、
新会社法の条文に匹敵するくらいの大分の契約原案を用意して、
交渉に備えることにしよう。
何だかんだ言って、自分のことになると適当な人間なので、
中身にはそんなにこだわらないだろうが、
仲裁地の条項だけはこだわってみようか・・・(ハワイか西海岸(笑))*5。