“個”の時代の到来

5月1日は「メーデー」であるにもかかわらず、筆者は入社以来、この日にそれらしい行事にかかわったことがない(入社仕立ての頃には、組合からの動員要請を蹴飛ばしたことすらある)。


元々古典的な「労働者」としてのアイデンティティが自分には存在しない上に、自分自身の生き残り戦略、という視点から見ても、もはや従来のような集団的な“労使間紛争解決システム”には大した利はないと思っているから、労働組合の活動自体に“建設的な何か”を感じることはできないのである。

労働組合とは、経営陣以上に昭和的価値観を持った組織なのだ」

というのは、城繁幸氏の名言であるが*1、筆者自身、このくだりを読んだ時に、我が意を得たり、と思ったものだ。


集団主義という枠組みを維持し続けている限り、一人ひとりの自由な生き方が抑圧され、多数派の論理に支配される、という点で、会社も組合もそう異なるものではない。


政治的なパフォーマンスの場ではリベラルな素振りを見せつつも、こと“社内政治”の舞台では、最終的に経営側の(というか人事屋の)代弁者として、アクティブな社員に“引導を渡す”のが、一般的な日本企業の組合の役回り、といっても過言ではないように思われる*2


ひとくくりに「労働者」といってみても、それぞれの仕事観、家庭観、生活志向はまちまちなのであって、そういった個々の労働者が抱える問題、トラブルを、“団体交渉”“労使協議”といった、集団的思想の色濃い労使間のテーブル上だけで処理しようとすること自体、元々無理があるのだ。

自分を守れるのは自分だけ。

そんな当たり前のことが、これまで十分に意識されてこなかったことが、ここ数年の不況期に見られた数々の“悲劇”を演出してきたように思う。


だが、遅まきながら、この国の人々もようやく気付き始めたのかもしれない・・・。



奇しくも、昨年4月1日から導入された「労働審判」制度が、なかなか好調な出だしであることがあちこちで伝えられている。


ジュリスト誌上でも「労働審判制度1年」という特集が組まれ、「労働審判制度1年−実績と今後の課題」というタイトルの座談会も掲載されているのであるが*3、そこで描かれている労働審判の現場の実態はなかなか斬新だ。


原則として「3回の期日で完結する」という手続上の制約ゆえに、当事者も“金銭による和解”という本音を早めに出さざるを得ないし、裁判所の心証開示も早期に行わざるを得ない。


審判に対して当事者が異議を申し立ててれば三審制の通常訴訟に移行する、というシステムゆえ、当初は屋上屋を架しただけではないか、という懸念もあったのだが、実際には、審判事件のうち調停成立で決着するのが約7割で、審判が出される2割弱の事件のうち、異議が出て裁判所に移行するのはその半分程度に過ぎない、というデータも出てきており*4、移行したものについても「普通の1審事件の半分以下のスピードで進行する」(徳住弁護士発言・24頁)そうであるから、公的機関による“裁決”はそれなりに効果を発揮している、ということになるのだろう。


従来労働者個人で行うにはハードルが高過ぎた「司法機関による労使間の紛争解決について「掘り起こし効果」が生まれている」*5、ということであれば、それは望ましいことこの上ない。


既に述べたように、個々の社員が抱える問題を解決するには、労働組合という組織はあまりに無力である。それは連合の幹部や個々の組合の専従役員が無能であることに起因する、というわけではなく、純粋に構造的な問題として無理なのだ。


それゆえ、組織的なバックアップもなしに、会社から解雇その他の不利益取扱いを突きつけられて途方に暮れている個々の社員を“救済”するためのツールが必要だったわけで、「労働審判」という新制度がその役割を果たせる(少なくとも果たせるものと受け止められている)のだとすれば、それは大いに評価されて然るべきだろうと思う*6


もちろん、労働審判の申立てに際して、陰に陽に労働組合が支援しているケースは決して少なくないだろうし*7、そもそも労働審判員自体の供給源が、いわゆる「労働組合の中の人」なのだから、この制度がうまく回ったとしても、“これで労働組合は完全に不要になった”と言い切ることはできないだろう。


だが、「一人でも戦える」という自信を、今会社で働いている(あるいはこれから働こうとする)人々一人ひとりに抱かせる突破口としての過渡期の制度、として、新制度の意義はやはり大きいのであって、近年の様々な労働制度改革と合わせ、これはポジティブに評価されるべき改革の一側面だと思っている。


一人ひとりの社員が会社と対等に戦える時代。


そんな時代が訪れることは暫くないであろうが、かといってそれが決して訪れることのない想像上の世界だとは、必ずしも言い切れない*8


もし、自分が生きている間にそういう時代が訪れたとしたら、その時には、“労働者の祭典”にでも顔を出してやろうか、と筆者は思うのである*9


なお、以下は余談だが、労働側の徳住弁護士による

「精密司法の思想ではなく、主張立証は一応するが、この辺でどうだというざっくりした解決方法も有効に機能していると思います。当初の予想より労働審判が扱う事件類型の間口が大きく広がっていると思います。」(11頁)

というくだりは、単に労働訴訟と「労働審判」の比較、という文脈だけで語られるものではなく、今の司法制度そのものへの問題提起、と読むことも可能だと思う。


世に数多くある紛争の中で、既存の「司法制度」が拾い上げているものは氷山の一角に過ぎない。


いくら法曹人口が増えても、それだけでは追いつかないくらい、「飯の種」はあちこちに転がっているのである。


後進の就職難を危惧して、企業の法務部門に押し付けまがいの人材セールスをする暇があったら、「飯の種」を拾い上げるための制度の拡充に努めたらどうか・・・、というのが、筆者の極めて建設的な戯言である。

*1:城繁幸「若者はなぜ3年で辞めるのか?」99頁(光文社、2006年)

*2:もちろん、常に経営側と対立している組合は少数ながらも存在するが、そういう組合の場合、今度は「戦うことそのもの」が自己目的化してしまうから、本当に解決したい問題を何一つ解決できずに終わってしまうのは言うまでもない。

*3:菅野和夫=徳住堅治=中町誠=難波孝一「労働審判制度1年−実績と今後の課題」ジュリスト1331号6頁(2007年)

*4:大竹昭彦「労働審判制度の施行状況と裁判所における取組」ジュリスト1331号42頁・表6

*5:前掲・大竹33頁、前掲・座談会9-10頁〔難波孝一発言〕

*6:ちなみに、筆者の会社では、組合が日々熱心にプロパガンダを行っているにもかかわらず、「労働審判」制度の発足については何らPRされておらず、周囲を見渡しても制度の存在自体知っているものは少ない。組合のプレゼンスを低下させるような制度を積極的に周知する理由はない、ということなのかもしれないが、「組合員」=「社員」の利益を第一に考えるべき労働組合がその程度の姑息な心意気で活動しているのだとすれば、それはなんとも寂しい話だといわざるを得ない。

*7:「許可代理」の問題に関して、「労働組合の役員が関係人として審理・審判に参加できないか」という問題提起が労働側の徳住弁護士からなされており(20頁)、それに対して難波孝一裁判官も肯定的な評価を示している。

*8:今後労働力人口の減少が進むに連れて、企業と労働者のパワーバランスは大きく変化していくことになるだろうから・・・。

*9:もっとも、その頃には式典を主催する“集団”自体が消えているのかもしれないが(笑)。

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