今に始まったことではないが、時が経つのは随分と早いものだと思う。
そして、今さら読んだジュリスト6月号の特集が「労働契約法の10年とこれから」というタイトルになっているのを見て、その思いはなおさら強くなった。
- 出版社/メーカー: 有斐閣
- 発売日: 2017/05/25
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この世界から離れて久しいとはいえ、元々この分野は、自分のキャリアの出発点と切っても切り離せない。
だから、10年前、もめにもめていた国会でこの法案が審議されていた頃*1も、果たしてどういう形で法案が成立するのか気が気でなかったし、遡ればその前の研究会や労政審の議論から、ずっと注視していたところはあったように思う*2。
だから、ドタバタの中で可決され、翌年に施行されたこの法律が、政権転換期をまたいで早10年も生き続けている、と聞くと、何ともいえない感慨が湧いてくる。
この法律ができた時に条文を見た自分の感想は、冒頭の座談会*3で、荒木教授が当時を振り返って言及されている「判例法理を足しも引きもせず」というキーワードそのものだったし、その後、有期労働契約保護の観点から18条〜20条という異色の規定が導入されてもなお、この法律の条文だけで複雑怪奇な労働法学・判例の全体像を明らかにすることは到底できていないだろう、と思っている。
だが、本特集でも紹介されているとおり、最近の労働条件切り下げをめぐる判例にしても、正規社員と非正規社員の均等待遇をめぐって近年多数世に出されている下級審裁判例にしても、労働契約法の条文を出発点として議論がなされているように見受けられる状況にあることを考えると、やはり、労使双方の立場から議論を始める上での出発点を作った、という点で、この立法の意義は大きかった、ということなのだろう。
ちなみに、自分は、「判例に判例を重ねる」的なアプローチの下で、解雇権濫用法理やら、就業規則変更法理やら、といった諸法理を叩きこまれた世代で、かつ、もう何年もこの世界から距離を置いている人間だから、「労働契約法に条文がある」という現実すら時々忘れがちになるし、労働契約法制定・施行後、特にここ数年の裁判例の蓄積を的確にフォローできている自信など全くない。
ただ、10年前と比べても労働契約の中の集団的規範的要素がかなり薄まってきている、という現実を目の前にして、「労働契約法」というこのシンプルな法律を(立法者の意図さえも超えて)フル活用し、「労働契約」の分野に新たな地平を切り拓きたい、という欲求は今でも心の内にある。
そして、昔、自分が書いた記事を読み返す中で、法制定後間もない時期にNBLに掲載された野川忍教授の以下の“未来予測”を現実のものとするために、爪を研がねば、という思いを改めて強くした次第である*4。
「労働者の処遇にかかる事項は可能な限り書面化することにより、近い将来に、一人ひとりの労働者と使用者とによる「労働契約書」を日本の雇用社会全体に普及させる方向を目指す必要があろう。それがグローバルスタンダードである。」
「また、就業規則による集団的管理のカバリッジをできるだけ限定して、個別労働契約による透明で明確なルールを拡大する努力も不可欠である。」
「使用者も、「人事権」という茫漠とした包括的権限から脱却し、個々の労働者との間の権利義務関係を踏まえた明確で適切な対処が求められるようになろう。」
(野川忍「これからの労働契約−労働契約法制定後の展望」NBL872号27頁(2008年)より、強調筆者。)
*1:まだ「野党」に元気があった頃。
*2:http://d.hatena.ne.jp/FJneo1994/20070109/1168367275のエントリーなど参照。
*3:岩村正彦=荒木尚志=木下潮音=水口洋介「労働契約法の10年を振り返って」ジュリスト1507号14頁(2017年)。
*4:http://d.hatena.ne.jp/FJneo1994/20080107/1199643329。残念ながら、日本の多くの「大企業」は、まだまだ野川教授が唱えられた理想には程遠い状況にあるし、自分も含めて「包括的人事権」の網からは完全に逃れられてはいないのだけれど、だからこそ、会社の内からでも外からでも挑戦して叩き壊す価値のあるものだ、と自分は確信してやまない。