日経新聞スポーツ面の「スポートピア」コーナーに毎週掲載されている蓮實重彦・元東大総長のコラムがなかなか面白い。
様々な分野において造詣が深いことを窺わせつつ、時にウィットの利いた洒脱かつ痛快なコメントを散りばめる蓮実氏のテクニックは、コラムニストとしては群を抜いて素晴しいものだと思う。
そんな蓮実氏が23日付のコラムで取り上げたのが、「不祥事を起こした組織の責任者がテレビカメラに向かって深々と頭を下げ」「その瞬間を待ったいたカメラマンが一斉にシャッターを切る」という文化である。
蓮実氏は、そのような文化を
「21世紀の日本が持ってしまった最も醜悪な謝罪の儀式」
と断じ、「その映像を放映することで何かを放映した気になっているテレビ局の姿勢」を「貧しいかぎり」と強烈に批判した上で、「そんな儀式」が、
ことを嘆かれている。
不祥事の当事者以上に「マスメディアの姿勢」に問題があるのでは?、という蓮実氏の指摘には筆者自身共感するところが多いし、スポーツから企業コンプライアンスの世界にまではびこったこの種の“謝罪文化”を何とかしてほしい、という思いも同じである。
だが、蓮実氏の以下のような指摘には、筆者としては若干の疑問を感じる。
「実際、この儀式には「皆様にご迷惑をおかけしたことを深くおわびする」とでも言っておけばよかろうぐらいの意味しかないことは、今では誰もが心得ている。そんな報道陣向けの儀式が事の本質と無縁であることも、視聴者はよく承知している。」(強調筆者)
これまで、“謝罪文化”に逆らってわが道を行こうとした人々が、世間からどのような仕打ちを受けてきたかを考えれば、本当に「視聴者が理解している」のか、疑問なしとはしない。
最近では東横インやシンドラーエレベーターがボコボコに叩かれたのは記憶に新しいし、かつての雪印社長の「寝てないんだ」発言は“会社を滅ぼした”とまで評されている。
蓮実氏が好意的に取り上げている江川卓氏(テレビカメラの放列の前で深々と頭を下げたり「世間を騒がせたおわび」を口にすることは一切なかった)にしても、アンチ派が抱いたダーティなイメージは引退するまで消えることはなかったし、同じく謝罪や言い訳を口にしなかった桑田真澄投手にしても、清原から善玉の地位を奪い返すまでには長い歳月を擁した。
リスクマネジメントを司る担当者の教科書に「最初にやることは偉い人に頭を下げさせること」と必ず書いてあるのは、そうすることがヒステリックなメディアの粘着を鎮火させるための最善の策(メディア向け対策としての側面)だから、ということだけではなく、多くの人々がメディアが垂れ流す内容を盲目的に受け容れてしまうこの国(これは日本に限った話ではないだろうが)では、そうすることが「顧客離れ」を防ぐ意味でも最善の策だ、ということが経験則上よく知られているから(顧客対策としての側面)、なのである。
「スポーツマンとして選手生命さえ縮める覚悟で、マウンド上での決着を目指した」
江川卓氏の姿勢は清々しいと思うのであるが、蓮実氏のように「儀式の意味」を理解できる人々ばかりがいるわけではないこの世の中で、「会社の生命」を縮める覚悟で「法廷での決着」を目指すのは、あまりにリスクが高すぎる。
多くの社員や取引先が犠牲になるリスクを背負ってまで、「自分たちが法の道を外れていない」ことを堂々と主張できる勇気ある経営者はそんなにいるものではないし、仮にいたとしても、「道義的・倫理的にどうよ?」と訳知り顔の批評家連中に叩かれて一巻の終わりだろう。
「醜悪」な謝罪の儀式にも、意味を持たせざるを得ない現実。
蓮実氏レベルのメディア・リテラシーを持った人々が世の中にもっと増えてくれれば、そんな儀式は不要なものになるのかもしれないが、そこに至るまでにどれだけの時間がかかるのか、想像するだけで絶望的な気分になる。