今月の「私の履歴書」(@日経新聞)コーナーに連載されている、川淵三郎・日本サッカー協会会長の回顧録。
Jリーグ発足前後の、この国の“サッカー”をめぐる環境の劇的な変化を固唾を呑んで見守っていた世代の人間としては、川淵氏と言えば、今でも「(偉大なる)チェアマン」という称号の方がしっくり来るのだが、「履歴書」の中でも、ちょうどそのあたりの話がいろいろと書かれていて興味深い。
50歳を過ぎて、所属企業から子会社への転籍を言い渡された後の“覚悟の転身”。
バブルの波にも乗ったリーグ草創期の熱気。
代表チームがドーハ、ジョホールバルと、一つひとつ試練を乗り越えていく中で、リーグを襲ったクラブ経営の危機。
そして、それを乗り越えて底辺拡大が進む現在。
当然ながら、この過程にある、いくつかの“黒歴史”はスルーされているし、語られていることが全ての真実だとも思わない。
横浜フリューゲルス消滅問題をめぐる、
「合併を認めずに共倒れされたら撤退の連鎖を招きかねない。心を鬼にするしかなかった。」
「いろいろな意味でサポーターには心から感謝している」
(2月22日付・第21回)
というコメントを読んで、あの頃の怒りがぶり返してきた元サポもいるだろうし、
「読売といえば、グループの総帥、渡辺恒雄さんとの論争も忘れられない。新聞やテレビで面白おかしく伝えられるたびにJリーグの理念も世間に広まった。今から思うとありがたいアシストだった。」
(同上)
というコメントも、「今だから」こそ、の話に過ぎないと思う。
だが、川淵氏とともに歩んできたこの20年近い時間が日本のサッカー界においていかに実り多き時間だったか、振り返ってしみじみと思うのは、決して自分だけではないだろう。
オフト監督が日本を率いていた時代、「ダイナスティカップ」(今の東アジア選手権)での日本の優勝は、“快挙”と称えられたし、同年、広島で開催されたアジア杯での優勝などは“奇跡”に近いものがあった。
それが今はどうだ。
中国GKの“カンフーキック”が話題となった東アジア選手権にしても*1、昨年開催されたアジア杯にしても、「優勝できなかった」ことで少なからず批判が出てくる時代である。
代表チームの戦力向上は、様々な要素が合わさって果たされたものだと思うが、その一つの要素が「Jリーグ」の(順風満帆とまではいかないまでも)順調な運営にあったことは間違いない。
時代とともに、チアホーンの牧歌的な音色は地響きに変わり、スタンドを染める色は、緑から赤へと変わっていったが、いずれにせよ、JSL時代の“どう見積もっても数百人”という光景は(少なくともJ1の舞台では)存在していない。
松永成立選手が守るゴールのネットにボールがふわっと転がりこんだその瞬間まで、リアルタイムで見つめていた「ドーハの悲劇」も、もう15年も前の話になってしまった今*2、「チェアマン」という言葉を聞いて、氏を思い浮かべる人もそうはいないのかもしれないが、どんなに時代が流れても、「チェアマン」としての氏の功績が失われることはないだろう(&そうあってほしい)、と筆者は思う。