時代の終わりのその先にあったもの。

90年代の真ん中あたりを大学のキャンパスで過ごした筆者の世代の人間にとって、「小室哲哉」の音楽が、生活と切っても切り離せない存在だったのは言うまでもあるまい。


生協のCDショップでアムロの曲がガンガン流れていていたかと思えば、部室の中では華原朋美だのTRFだのの曲をエンドレスで浴びせられ、お休み前にとどめのglobe(苦笑)。


好むと好まざるとにかかわらず、“TK”に触れずして日本の音楽シーンは語れない・・・そんな時代は確かにあった。



気が付けば、かれこれもう10年近くもヒット曲に恵まれていない、という現実には驚くほかないのだが、いつの間にかフェイドアウトするのではなく(あるいはチャチな犯罪で新聞の片隅を飾るのではなく)、最後の最後に特捜部の大捕り物の主役を演じるあたりは、“時代の寵児”の面目躍如といったところだろう(苦笑)。


“堕ちた偶像”と批判するのは簡単。


だが、頂点に立った者にしか見えないもの、味わえない世界があるのも確かで、平凡な雀たちがどんなに騒々しくわめいたところで、その域には到底達し得ない。


そして、もし、彼がこのまま塀の中に落ちることになったとしても、これまでに世に残してきた彼の作品が色褪せることは、決してないだろうと思うのだ。



なお、チラホラ話題に上っているようだが、著作権の「二重譲渡」の問題は、動産・不動産のそれ、のように単純な問題ではない。


先行する譲受人が存在したからといって、後行譲受人による楽曲の利用に“物理的な”制約が生じるわけではない、という無体情報財の特質に加え、対抗要件制度が十分に浸透していないことが、輪をかけて問題を複雑にしている。


もちろん、現実には、今回5億円を支払った投資家が、名だたる音楽出版社等を差し置いて“著作権ビジネス”を展開するのは事実上不可能な状況だったのだろうし、報道されている“事実”をベースにする限り、例の「5億円取引」においては、そもそも最初から「著作権を譲渡する」ことが全く想定されていなかったようにも思われるから、細かいことを言うまでもなく、犯罪成立ということになるのだろうけど・・・。


そう遠くない日に下るであろう、審判の行方を見守ることにしたい。

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