「権利」で勝てないもどかしさ

提訴時にはそれなりに話題になった、「廃墟」被写体写真著作権等侵害事件。
あれから丸2年近い月日が流れ、昨年末ようやく第一審判決が出たようである*1

結論としては、原告側敗訴となり、原告の言い分を支持していた方々にはもどかしさが残る結果となったが、「法はどこまで創作者を保護できるのか」ということを考える上では、興味深い判示もいくつかなされている判決だけに、ここで簡単にご紹介しておくことにしたい。

東京地判平成22年12月21日(H21(ワ)第451号)*2

原告:A
被告:B

匿名とされたウェブアップ版の当事者表示を見るだけだと良く分からないが、原告も被告もプロの写真家。

そして、原告は「棄景」という写真集で、被告は「廃墟遊戯」等の写真集で、いずれも

「廃墟」を被写体とする写真

を自己の作品として世に出しているところ、被告の写真集に所蔵された写真の中に原告写真と同一の被写体を撮影したものがあったことや*3、被告が自己の写真集の巻末インタビューで(原告のお株を奪うような)「廃墟」写真への思い入れを表明したことなどから、原告は被告に対し、

著作権(翻案権等)、著作者人格権(氏名表示権)侵害
名誉棄損及び法的保護に値する利益の侵害

を請求原因として、被告書籍(写真集)の増製・頒布差し止め・一部廃棄、不法行為に基づく損害賠償、名誉回復措置としての謝罪広告を請求することになった。

原告側の代理人に、知財分野で名高い小倉秀夫弁護士が付いたことでも注目されたこの事件で、裁判所がどのような判断を示したのか、以下、争点ごとに見ていくことにする。

著作権著作者人格権侵害の成否

一見、キモのように思われていたこの争点だが、本件訴訟においては、原告がここで“勝利”を目指すのは、少々無理筋だった、というのが本当のところではないか、と思う。

というのも、写真の著作物については、

「富士山を撮影する場合でも、季節、場所、時間、方向等で様相が異なるが、それは既に存在する被写体の諸様相の中から一つを選んだということであり、その選択自体は著作権法上保護されない。その選んだ様相の一つを、カメラワーク等の創意工夫によってフィルムの上に創作的に表現して始めて著作物となる。その著作物性は被写体ではなく、撮影者のカメラワークを中心に判断されるそうなると、理論的には他人の写真自体を複写せずに、同じ被写体を同じ場所で自ら撮影しても非侵害となろう。その意味で、そのような写真の著作権の保護範囲は、事実上その写真を用いた複製や翻案に限られよう。」(中山信弘著作権法』(2007年、有斐閣)93頁、強調筆者、以下同じ)

というのが一般的な考え方であるところ、本件における原告の主張は、「「被写体」である廃墟の選定及び構図の選択に原告著作物の表現上の本質的な特徴がある」という、通説的見解に真っ向から挑戦するようなものだったからである。

被告の行為が“素人のデッドコピー”であればともかく、本件のように被告もプロの写真家、となると、カメラワーク等で当然に原告写真とは異なる独自性が発揮されてしまう。それゆえ、原告としては、

「廃墟写真」という写真ジャンルにおいては,被写体たる廃墟の選定が重要な意味を持つ。
「廃墟写真」の被写体は,誰もが美しいと感ずる光景ではなく,それゆえ,先駆者たる写真家がその光景に「美」を見出すまでは,その光景が風景写真の被写体たるに値すること自体誰にも気付かれていなかったものである。そこでは,その従前見捨てられ,あるいは見逃されてきた光景に耽美性を見出し,これを被写体として選択したこと自体に,写真家の個性,より具体的にいえば,写真家の美的センスないし感受性が表れている。
また,「廃墟写真」を見る者を最も惹き付けるのは,その「廃墟」が持つ妖しげなあるいは物悲しげなあるいは郷愁を誘うような美しさである。写真家はこの美しさを伝えるために,撮影時刻,露光,陰影の付け方,レンズの選択,シャッター速度の設定,現像の手法等において工夫を凝らすのであるが,富士山の風景写真等とは異なり,その「廃墟」が被写体として写し出されていることにその写真の特徴を見出すのである。
(6-7頁)

という理屈で翻案権侵害を主張せざるを得なかったのだろうと推察されるが*4、裁判所は案の定、以下のように述べて、原告写真に係る原告の主張を退けた(原告写真1(旧丸山変電所の建物内部)に係る判旨部分を例として取り上げるが、その他の写真についてもほぼ同じ判示がなされている)。

「原告が主張する原告写真1において旧丸山変電所の建物内部を被写体として選択した点はアイデアであって表現それ自体ではなく,また,その建物内部を,逆ホームベース状内壁の相当後方から,上記内壁に対して斜めに,上記内壁に接する内壁とほぼ平行の視点から撮影する撮影方向としたことのみから,原告が主張するような「旧丸山変電所の,打ち捨てられてまさに廃墟化した」印象や見る者に与える強いインパクトを感得することができるものではない。したがって,原告が主張する原告写真1における被写体及び構図ないし撮影方向そのものは,表現上の本質的な特徴ということはできない。」
「次に,原告写真1と被告写真1とは,旧丸山変電所の建物内部を被写体とする点,逆ホームベース状の内壁を奥に配置した点,上部に屋根と空を配置した点,逆ホームベース状内壁の相当後方から,上記内壁に対して斜めに,上記内壁に接する内壁とほぼ平行の視点から撮影した点などにおいて共通する。しかし,他方で,原告写真1と被告写真1とは,?原告写真1は,ハイコントラストの白黒写真で,遠近感が強調されているのに対し,被告写真1は,建物の内部全体を色鮮やかに映し出したカラー写真であり,画面中央の煉瓦のオレンジ色や空の青を強調することによって室内の壁の白さやそこに残るしみを際立たせたり,積み重なる煉瓦,屋根の鉄骨の錆,手前の床に散乱した残留物など個々の物体をその陰影を含めて克明に映し出していること,?原告写真1は「左側の内壁」とほぼ並行に撮影しているのに対し,被告写真1は「右側の内壁」にほぼ平行に撮影しているところ,丸山変電所の建物内部は左右対称ではなく,特に右側の屋根の葺き板はほぼ消失している一方で左側の屋根の葺き板は大部分が残っているため,原告写真1では右上から中央部にかけて斜めに走る屋根の葺き板の消失部分から空が見えるのに対し,被告写真では右上に手前から奥にかけてまっすぐに走る屋根の葺き板の消失部分から空が見え,このように左右いずれの位置から撮影したかによって,屋根の部分の印象が異なるものとなっていること,?原告写真1では,生い茂る植物や光が強調されているが,被告写真1ではそのような表現は取られていないことなどの相違点があり,これらの相違点によって,原告写真1と被告写真1とでは写真全体から受ける印象が大きく異なるものとなっており,被告写真1から原告写真1の表現上の本質的な特徴を直接感得することはできない。」
「したがって,被告写真1の作成が原告写真1の翻案に当たるとの原告の主張は,その余の点について検討するまでもなく,理由がない。」
(51-52頁)

これにより、翻案権侵害と原著作物に係る複製権、譲渡権侵害、さらに氏名表示権侵害は認められない、という結果となった。

名誉棄損の不法行為の成否

原告が本件訴訟を提起する“動機”となったと思われる、という意味では、この争点も看過できないところであった。

問題とされたのは、被告が出版した「亡骸劇場」(2006年6月発行)における、

「1990年代前半,東京湾岸の風景を撮影していた頃,・・・スクラップ&ビルドの世界に興味を持っていました。そこで眼にした捨て去られた古い倉庫や貨物列車の引き込み線を撮影したとき,初めて「廃墟」というものを意識しました。それから全国に同じような場所がもっとあるだろうと考え,古い地図帳をたよりに鉱山跡を探す旅に出るようになりました。鉱山の廃墟を撮影していて気づいたのは,かつて鉱山を中心にしてでき上がった集落は鉱山が閉山したあと,同じように朽ち果ててしまったということです。」,「そんなゴーストタウンの学校や病院,遊園地,商店などを眼の前にしたとき,鉱山跡とはまったく違った別のジャンルの廃墟が撮れると確信し,「亡骸」シリーズの撮影を続けることにしたのです」(5-6頁)

というくだりで、原告は、この記載が、「あたかも被告自ら「廃墟写真」というジャンルをゼロから作り上げたかのような事実摘示を行っている」と指摘したうえで、

「この事実摘示を目にした一般人が原告の廃墟写真に接したときは,反射的に,原告が「廃墟写真」という分野において被告の二番煎じを演ずる模倣者であるとの誤解を生ずるおそれがあるから,被告の上記発言は,原告の名誉を毀損するものである。被告は,被告以前に原告がプロの写真家として「廃墟写真」というジャンルを確立した先駆者であることを知りつつ,上記発言を行っており,被告に故意があることは明らかである。」(31頁)

と、名誉棄損の不法行為が成立すると主張した。

1990年代前半から「棄景」等の写真集や廃墟写真を題材にした個展等を開いていた原告にしてみれば、“後発”である被告の上記のような発言は、ひどく癇に障るものであっただろうし、それゆえ、そこを突こうとした原告代理人の努力も理解はできる。

だが、裁判所は、

「上記記述部分は,「鉱山の廃墟」を撮影してきた被告が,「鉱山の廃墟」とは別の種類の廃墟を撮影して,それらの廃墟写真を「亡骸劇場」に掲載するに至った個人的な経緯を述べたものであって,上記記述部分から,原告が主張するようにあたかも被告自らが「廃墟写真」というジャンルを創設したことを述べたものと認めることはできない。」
「また,上記記述部分には,原告及びその写真作品に言及した記載はないのみならず,被告が「廃墟写真」のジャンルにおいて原告の先駆者であるかのような印象を与える記載もない。したがって,上記記述部分は,原告の名誉を毀損する事実の摘示を含むものとは認められない。」(59-60頁)

と、冷静に原告の主張を退けた。

被告の言う「「亡骸」シリーズ」が、「廃墟写真」全てを包含するものとは直ちに言えないこと、原告の社会的評価の低下をストレートに招くような記載が存在しないこと等を考えると、妥当な判断だろう。

法的保護に値する利益の侵害の不法行為の成否

個人的には、この争点が一番面白い争点だったのではないかと思う。

というのも、本件では著作権侵害が争われた写真1〜5に加え、他にも構図が異なるが同じ被写体を選択した写真が、被告写真の中に複数存在することが指摘されている。

そして、「富士山」のようなポピュラーな被写体とは異なり、“発掘”して初めて商業的価値を持つ「廃墟」の場合、

「(1)原告が自ら多大な費用と労力をかけて発掘した「廃墟」について,廃墟写真を撮影して写真集等に収録して発行し,これにより投下資本を回収することによる営業上の利益,(2)原告がその写真集に掲載されている廃墟写真の被写体である廃墟の発見者であると正しく認識されること,換言すれば,その写真集に掲載されている廃墟写真が,他人の発見した廃墟を追い掛けて撮影した二番煎じものであると誤解されないということは,その顧客訴求力を高い水準で保ち,これにより多くの著作権収入を得るということにつながるものであり,このような意味での営業上の利益,(3)原告が発掘した廃墟を撮影した写真が後発の雑誌,新聞,CDジャケット等に掲載され若しくはテレビニュース等のタイトル画像に使用される等して商品等又はサービスに組み入れられる場合には,通常,原告がその廃墟の発掘者として,既に撮影済みの写真について利用許諾を行ったり,業務委託契約を締結してその廃墟の写真を新たに撮影することとなるが,そのような原告の地位は,多大な費用と労力をかけて被写体たるに相応しい廃墟を発掘するプロの写真家たる原告にとって,投下資本の回収可能性を支えるものであり,このような意味での営業上の利益である。」
「このような営業上の利益が法的保護に値することの根拠は,これらの廃墟が一般には(少なくとも作品写真の被写体としては)全く知られておらず,それらの存在を認識し,かつ,それらに到達して作品写真に仕上げるまでに,極めて特殊な調査能力と膨大な時間を要していること,このノウハウと多大な労力に営業上の利益の根源が存することにある。」(33頁)

といった原告の主張にも耳を傾ける余地はたぶんにあり得た*5

裁判所は結局、

「「廃墟」とは,一般には,「建物・城郭・市街などのあれはてた跡」をいい(広辞苑(第六版)),このような廃墟を被写体とする写真を撮影すること自体は,当該廃墟が権限を有する管理者によって管理され,その立入りや写真撮影に当該管理者の許諾を得る必要がある場合などを除き,何人も制約を受けるものではないというべきである。」(61-62頁)

と「廃墟を撮影すること自体は制約されない」いうところを前面に出して、

「このように廃墟を被写体とする写真を撮影すること自体に制約がない以上,ある廃墟を最初に被写体として取り上げて写真を撮影し,作品として発表した者において,その廃墟を発見ないし発掘するのに多大な時間や労力を要したとしても,そのことから直ちに他者が当該廃墟を被写体とする写真を撮影すること自体を制限したり,その廃墟写真を作品として発表する際に,最初にその廃墟を被写体として取り上げたのが上記の者の写真であることを表示するよう求めることができるとするのは妥当ではない。また,最初にその廃墟を被写体として撮影し,作品として発表した者が誰であるのかを調査し,正確に把握すること自体が通常は困難であることに照らすならば,ある廃墟を被写体とする写真を撮影するに際し,最初にその廃墟を被写体として写真を撮影し,作品として発表した者の許諾を得なければ,当該廃墟を被写体とする写真を撮影をすることができないとすることや,上記の者の当該写真が存在することを表示しなければ,撮影した写真を発表することができないとすることは不合理である。」
「したがって,原告が主張するような,廃墟写真において被写体となった「廃墟」を最初に被写体として発見し取り上げた者と認識されることによって生ずる営業上の利益が,法的保護に値する利益に当たるものと認めることはできない。」(62-63頁)

「前記ア認定のとおり,ある廃墟を最初に被写体として取り上げて写真を撮影し,作品として発表した者において,他者が当該廃墟を被写体とする写真を撮影すること自体を制限したり,その廃墟写真を作品として発表する際に,最初にその廃墟を被写体として取り上げたのが上記の者の写真であることを表示するよう求めることはできないことに照らすならば,仮に原告が主張するように被告が原告写真1ないし13を見て被告写真1ないし13の撮影場所に赴いたとしても,被告において被告写真1ないし13を被告各書籍に発表するに際し原告の同意を得るなどの必要はないというべきであるから,原告が主張する被告の行為は,その主張自体,社会的に是認できる限度を逸脱した違法なものに当たるものではないというべきである。」
「また,(1)被告各書籍及び「亡骸劇場」には,被告が被告写真1ないし13の各被写体を最初に撮影した者である旨の記載はなく,また,被告が原告に先立ってこれらの被写体を撮影したことをうかがわせるような記載もないこと,(2)被告各書籍に掲載された被告写真1ないし12については,それらの撮影時期が明記されていること(乙5ないし8)に照らすならば,被告において原告が主張するような先駆者としての利益を害する主観的な意図があったものと認めることはできない。」(63-64頁)

と、不法行為の成立を否定している。

原告が「営業上の利益」に基づき被告に求めた法的義務が、「原告が最初に廃墟写真として作品化した被写体を、営利の目的において撮影し発表するに当たって、原告の同意を得るか、少なくとも当該作品を掲載する書籍において、原告の作品を参照したことを明らかにする義務」と、全ての場合にあてはめるにはあまりに重いものだったことや、原告・被告写真集で共通する被写体として挙げられていたものが、10数個にとどまっていたこと*6などから、上記のような判断に至ったのだろうが、仮に被告の写真集が原告写真集で選択された素材を丸々後追いするようなものだったり、被告があたかも第一撮影者であるかのような説明書きが付されていたりしたら、果たして同じ結論になったのか?興味が残るところである。

いずれにせよ、本件が“仁義”と“権利”の境界線上で、限界をギリギリまで追求した好事例であることは疑いのないところで、今後上級審での争いが続くのであれば、引き続き裁判所の判断に注目したい。

*1:最高裁HPにアップされたのは、年が変わってからだった模様。

*2:民事第46部・大鷹一郎裁判長、http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20110106124424.pdf

*3:原告写真1〜5、対象はそれぞれ、旧丸山変電所の建物内部、足尾銅山付近の通洞発電所跡、大仁金山付近の建物外観、奥多摩ロープウェイの機械室内部、奥羽本線旧線跡の橋梁跡である。

*4:なお、一般的な感覚から言えば、この理屈は比較的納得感を得やすい論理であり、苦しい中でも知恵を絞った跡がうかがえる主張だといえるだろう。

*5:もちろん、この主張が認められたとしても、「被告が意図的に原告の選択した被写体にフリーライドした」という主張立証ができなければ被告の不法行為の成立は認められないのであるが、原告作品への“依拠”を全否定する被告の主張が必ずしも万全ではない(被告が、原告写真集での誤った被写体の説明書きをそのまま使ってしまっている、といった点なども指摘されているし、その他の“反論”も「ホントか?」と首をかしげたくなるようなものが散見される)ことからすれば、後者のハードルはそんなに高くないように思われる(裁判所はここに踏み込むと泥沼になると察したのであろう、結局依拠の有無については当事者の激しい主張の応酬にもかかわらず、何ら事実認定を行っていない)。

*6:実際に写真集に収録されていた写真はもっと多かったのだろうと思われる。

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