武豊騎手が歩んだ道のりと、重なる何か。

武豊騎手が、トーセンラーに騎乗したマイルチャンピオンシップで、鮮やかな差し切り勝ちを飾り、日本ダービーに続く今年2つ目のG1タイトルを手に入れた。
万能型、かつマイル前後の距離での爆発力は半端ないディープインパクト産駒だったとはいえ、ここ3年近く2000m未満の距離では走ったことがなかった“長距離馬”を、後方で脚を溜めて直線で一気にズカン!!といった感じの教科書通りの手綱さばきで勝利に導いたあたりは、40歳を過ぎてもなお、「武豊」というブランドが生き続けていることを感じさせるに十分だったと思う。

で、たまたまワンセグで中継を見ていたら、入線後に「祝・G1・100勝」というテロップが流れているように見えて、何かの錯覚だろう・・・(確かまだそんなには勝っていなかったはず・・・)と思っていたら、夜のニュースでも延々と同じフレーズが繰り返されていた。

よくよく聞けば、地方交流G1と海外G1を合わせると、ちょうど「100」ということらしい。
このカウントの仕方は、野球の世界の「日米通算・・・」と同じようなもので、しかも、地方交流重賞での実績を合わせた数字だから、そこまで騒ぐほどのものではないだろう・・・と個人的には思うところだが*1、それでも、初めてのG1が、88年菊花賞スーパークリーク、と聞くと、思わず自分の中の“競馬史”と重ねずにはいられなくなる。

前にもどこかで書いたかもしれないが、自分が初めて目の前で走るサラブレッドの姿を見たのが、87年の有馬記念(審議の末、武豊騎手騎乗のスーパークリーク降着する、という事態になり、場内が騒然としたことが鮮烈な記憶として残っている)で、それ以降、ほぼ間断なく競馬、というものを見続けていたのが自分。
そして、その間に、“史上最速”というフレーズを常にぶら下げながら、猛烈な勢いで勝ち星を挙げつづけてきたのが武豊騎手。

Wikipedia武豊騎手が紹介されているページを見ると、彼の全てのG1勝利が記録されているのだが、スーパークリークに始まって、シャダイカグライナリワン、そしてオグリキャップバンブーメモリー、さらにその翌年からメジロマックイーン天皇賞・春連覇。

昭和から平成に切り替わり、競馬場にもWINSにも、まだバブルの余韻の熱気があふれていたこの時期に、まだ20歳を超えるか超えないかくらいの最若手ジョッキーが、伝統のあるレースを勝ちまくっていた、という光景は、実に鮮烈なものだった。

そして、サンデーサイレンス産駒が猛威を振るい始めた90年半ば以降は、“武豊が選んだかどうか”が、新馬の将来性を見極める上での一つのメルクマールとして、POGフリーク達を一喜一憂させ、さらに、1994年のスキーパラダイス以降、「海外」と言えばこれまた武豊騎手が代名詞となった。

騎手の中でも抜群の知名度を誇り、かつ実績も残していたゆえに、他の騎手と組んでそれなりの実績を上げてきた馬の手綱を“奪う”形になることも多かったし*2、全盛期には、一度選ばずに、他の騎手の手綱でクラシックロードに乗った馬が、本番直前で手元に戻ってくる、というパターンもあったりして、判官贔屓のファンからは常に複雑な視線を向けられていたのは事実。

自分も、ジャングルポケットが4歳の秋に連敗した時だとか、ステイゴールドが晩年なかなか結果を出せないでいた時には、元々主戦だった角田騎手や熊沢騎手の顔を思い浮かべながら、文字通り“罵声”を浴びせたことは数知れないし、彼の馬が勝ったら勝ったで、「また武か、余計な仕事しやがって」的な舌打ちをしたことも数知れず・・・*3である。

馬と喧嘩することなく、気持ちよく走らせて(でも仕掛けるべきところではきちんと仕掛けて)、素質を存分に引き出す、というのが武豊騎手の全盛期の騎乗であり、これだけの数字を積み重ねてきた最大の理由だと自分は思っているのだけれど、逆に言えば、引き出せる素質があるだけの騎乗馬に恵まれたからこその数字、ともいえるわけで、多少動かない馬でも半ば強引に見えるくらいの手綱捌きで勝ち星を拾っていく地方競馬出身のジョッキーや、外国人騎手が増えてくると、何となく見栄えで引けを取るようになる。
そして、負傷や大馬主との関係悪化で、徐々に素質のあるお手馬が減るにつれて、極端な戦法に活路を見出さないといけない場面も増えるようになり、そうなると、ますます、“粗”が目立つようになる・・・*4

行き着いた先は、「武豊はもう終わった」という、馬券オヤジたちの囁き声・・・。


改めて見返すと、“武豊ブランド”が完全に過去のものになりつつあった、この3,4年*5の間でも、地方交流重賞では、ヴァーミリアンで3勝、スマートファルコンで6勝、と着実に勝ち星を積み重ねている*6

どうせ全国行脚させるなら、全国津々浦々まで名の通ったジョッキーで、という側面もあるのだろうが、いい馬に乗ればきちんと結果を出せる、ということを、地道に証明していた、とも言えるところで、そういった積み重ねが今年の「8年ぶりのダービー制覇」につながった、というべきなのかもしれない。

おそらく、あと数年で「50」の声を聞くことになる武豊騎手が、かつてのように、勝っても負けても“罵声”や“小言”の対象になるようなことはもはや考えにくいし、今後はどちらかと言えば「昔は好きじゃなかったけど、今となっては応援するよ。1年でも長く頑張れよ」的な、かつての岡部幸雄師匠に向けられていたような温かい声援が、年ごとに増えていくことだろう。

ただ、武豊騎手が表舞台から姿を消していたここ数年、盤石の“看板馬”も“看板騎手”も存在せず、目まぐるしく主役が入れ替わったここ数年の競馬が、明らかにかつてに比べて輝きを失っていた、ということもまた事実だけに、個人的には、“憎ったらしいほどの悪役”として、「強い武豊」が再びターフに戻ってきてくれることを、自分は密かに願っている。

日本競馬界の未来のために。

*1:ここ最近の復調ぶりを見ていると、まだまだしばらくは現役続行できそうだし、中央G1の数字だけで「100」までたどり着くことも、決して不可能ではないと思うので。岡部幸雄騎手もちょうど今の武騎手と同じくらいの年齢だった92年以降、20勝近いG1勝利を積み重ねている。今は当時よりG1のレース数も増えている。

*2:特に、クラシックで厩舎所属の地味なジョッキーと組んで実績を残した馬が、古馬になったタイミングで武豊騎手とコンビを組む、というパターンは多かった。言うなれば“一人巨人軍”みたいなもので、結果が出ればさすが、となるが、結果が出なければ、元々のコンビを応援していたファンにとっては憎むべき存在、ということになってしまう。

*3:そもそも、デビュー戦から武騎手が手綱をとって、エリート街道をまっしぐらに歩いているような馬を、すんなり馬券の対象にできるほど、自分は人間ができていないので・・・。

*4:自分が一番印象に残っているのは、リーチザクラウンとコンビを組んでいた2009〜2010年頃の気の毒になるくらいのちぐはぐな競馬ぶり。もちろん、確率論で言えば、逃げや極端な追い込みが成功する確率は、好位差しに比べれば遥かに低いわけで、いかに名手・武豊騎手とはいえ、常に成功するはずもないのだが、それまで(サイレンススズカのような別次元の馬を除けば)“王道”のレースぶりしか見てこなかった者にとっては、非常に奇異な光景だった。

*5:中央では、2009年にウォッカ安田記念を制して以来、降着で拾った2010年のジャパンCローズキングダム、レースでは完敗)を挟んで、2012年のマイルCSサダムパテック)まで勝ち星なし。勝利数でも2010年〜2012年は、100勝に大きく届かない数字が続いている。

*6:武豊騎手がダートで騎乗しているイメージ、というのがそもそもあまりなかったので、地方交流G1だけで25勝、というのはかなり意外だった。

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