最上級のパフォーマンス、再び。

リオ五輪の閉会式のハンドオーバー&東京プレゼンテーションを見た時は、これを超えるパフォーマンスを目にする機会は当分巡ってこないだろうな・・・と思ったものだが、約1カ月後、再びパラリンピック閉会式、という大舞台でさらに素晴らしい奇跡を目撃することができた。

流れる映像の一部にオリンピックのそれの使い回し感があったことは否めないし*1、“マリオ”的なアトラクションの要素も、会場を派手に使ったマスゲーム的な要素があったわけでもない。
だが、その分、生身の人間にスポットを当て、障碍というバリアを逆手に取った芸術性と迫力を前面に押し出す、という舞台は、少なくともテレビで見ていた視聴者にとってはより凄味を感じさせられるもので、今、五輪の時のプレゼンテーションと見比べても、遜色ない、というか、遥かに凌駕するものだったように思えてならない*2

スポットライトが当たった3人以外にも、車椅子のダンサー、ダウン症のダンサー等々、様々な障碍を持つ人々が同じ舞台の上に立って、それぞれの表現で「TOKYO」を描く。
その姿の美しさ、神々しさをどう表現すればよいのか、あの10分間の間は、ただ息をのむばかりで上手い言葉が見つからなかった、というのが本当のところである。

オリンピックのパフォーマンスに比べると、より“椎名林檎色”が強まっていたことや、もしかしたら一部の世代にしか響かないかもしれない「東京は夜の七時」*3がハイライトの曲として流れていたことなど、好き嫌いが分かれる要素が多かったことは否定しないが、自分は、あらゆる選手たちがメディアが創り上げるスターシステムに組み込まれ、ともすれば主役が自分たちと同じ人間だ、ということを忘れてしまいそうになるオリンピックとの対比で、戦いの中に生身の人間臭さが残っているパラリンピックを象徴するようなプレゼンテーションだったな、と、最初から最後まで好意的に受け止めている。


これで、「4年後」に向けたスタートは完全に切られることになった。

オリンピックにしても、パラリンピックにしても、「プレゼンテーション」はあくまで“ショー”、多少の誇大宣伝は許される、と言ってしまえばそれまでなのだが、リオの舞台で描かれたクールで美しく情感あふれた「東京」の姿が、4年後、ただの幻、ということで終わってしまったら開催国としてはやはり失格、ということになってしまうだろうと思うわけで、「開会式であれだけのパフォーマンスを再び見せられるか」という分かりやすい懸念以上に、描かれた世界にどうやって現実を近付けるか、ということにも我々は挑み続けないといけない・・・と思った次第である。

*1:ただ、前半の1964年のエピソードのくだりはとてもよかった。

*2:広い会場でそれがどこまで伝わったか、というのは分からないが、テレビには部分的にしか映らなかった背景のCGなども相当凝っていたようなので、会場にいればいたなりの迫力はまた感じられたのかもしれない。

*3:自分は思いっきりツボだったが(笑)。

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